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気賀エリア
きがえりあ

軽便で栄えた細江の中心地
浜松市の西の端に位置する細江町。南は浜名湖に接し、西から北にかけては赤石山脈を仰ぎ、
南部は河成段丘(三方原台地)からなる、起伏に富んだ地形が特徴です。
この細江の中心地が江戸時代の宿場町で知られる気賀。
湖、川、山に守られた天然の要害である気賀は、古くから舟運の拠点でしたが、
東海道の脇街道である姫街道が整備されてからはさらに繁栄。
大正時代には軽便鉄道が敷設され、にぎわいはピークを迎えました。
今回は、そんな気賀の変遷をご紹介します。

古墳時代から続く人々の営み

気賀は1955年(昭和30年)に隣接する中川村と合併して細江町になりました。その前身は引佐郡気賀町。古くから、水辺に都市や文化が栄える例は多く見られますが、細江と呼ばれる入江に注ぐ都田川の河口部に位置する気賀も例外ではありません。近隣からは古墳が多数発掘されており、人々の営みが連綿と続いてきたことがわかります。
そんな気賀の名が広く全国に知られるようになったのが江戸時代。江戸幕府が天正15年(1587年)に気賀宿を設けました。当時、宿場(宿駅)は旅人の宿泊や荷物の継ぎ送りなどの業務を行っており、本陣、脇本陣、旅籠といった宿泊施設や問屋場(人馬や駕籠などを用意して旅人の便宜をはかったところ)などの建物が集まる、都市の機能を持つ場所でした。
宿場は重要な街道に置かれるのが常。気賀も例外にもれず、姫街道という通称で知られる本坂街道がまちの中央を貫通する要衝でした。慶長6年(1601年)には、通行人や物品の検査に当たる気賀関所が置かれ、京から下る箱根関所と新居関所とともに、江戸に対する重要な取り締まりの拠点になりました。現在も、気賀関所の東門跡、江戸時代の史料を基にして忠実に復元した気賀関所本番所などを巡ることができます。なお、姫街道と呼ばれるようになったのは幕末頃からです。呼び名の由来は諸説ありますが、東海道の本道の一部の区間(今切渡)は荒れた海を船で渡る必要があり、これを避ける女性の多くが本坂街道を選んだから、という説が有力です。

気賀口駅に停車する遠州鉄道奥山線。[写真提供:上嶋 裕志さん]

気賀口駅に停車する遠州鉄道奥山線。[写真提供:上嶋 裕志さん]

 

宿場町から軽便の走るまちへ

人や物を運ぶ姫街道を中心に発展してきた気賀は、近代に入り、遠州地方の南北を結ぶ役割を担うようになります。そのきっかけが、軽便鉄道の登場です。
遠州地方初の鉄道として、東海道本線の静岡―浜松間が開業したのは明治22年(1889年)。日本の最古の鉄道路線である東海道本線と沿線の町や村を連絡するために、多くの鉄道が建設されることになりました。
そもそも軽便の一般的な意味は、扱い方が手軽で便利なこと。軽便鉄道は線路の幅が狭く、機関車と車両が共に小型の鉄道で、資本金が小額で済むことから、日本各地で敷設されたのです。浜松の軽便もそのうちの一つで、大正3年(1914年)に浜松軽便鉄道という名称で創業しました。
浜松軽便鉄道の軌間(鉄道の線路を構成する左右のレール間隔)は762ミリメートル。たとえばJR東海道線(在来線)の軌間は1,067ミリメートルなので30センチ以上幅が狭く、軽便がいかに小型であるか想像できますね。
静岡県下において、昔から浜松は静岡と並んで人口の多い都市でした。静岡が徳川家康公以来の城下町と県庁所在地として栄えたのに対し、浜松は徳川家の譜代大名の居城の城下町から始まり、繊維・楽器・バイクなどの工業の盛んなまちとして発展を遂げました。この浜松の市街地と曳馬、金指、気賀などを南北に結ぶために、明治時代末期に鉄道の計画が立てられ、大正元年(1912年)に浜松軽便鉄道株式会社の創立総会が開催されたのです。

気賀四つ角から見た清水通り(昭和30年代)。中央には遠州信用金庫の前身の一つ「引佐信用金庫 本店」が見えます。[写真提供:上嶋 裕志さん] いまも面影が残る、現在の清水通り(2024年)。

ラッキョウ軽便の名で親しまれる

まずは大正3年(1914年)に元城― 金指間が開業。大正4年(1915年)には、商号を浜松鉄道に変更し、元城 ― 板屋町間と金指 ― 気賀(後の気賀口)間が開業しました。その後、大正12年(1923年)には気賀 ― 奥山間が開業して、25.8キロメートルが全通。戦後には遠州鉄道と合併し、遠州鉄道奥山線と呼ばれるようになりました。
浜松軽便鉄道は、名称の変遷と同様に、使用車両も変わっていきました。創業時は蒸気機関車。その後はディーゼル機関車、気動車、そして電車へ…。そんな軽便の思い出を持つ人が、最も郷愁を駆られるのが蒸気機関車の時代でしょう。開業時に導入されたのはドイツのコッペル社製の蒸気機関車。煙突が長く、形がラッキョウに似ていることから、地元の人々は親しみを込めて「ラッキョウ軽便」と呼んだそうです。
その後、大正末期から昭和初期にかけて、沿線に陸軍浜松飛行隊第7連隊(現在の航空自衛隊浜松基地)が設置されたことで軍事輸送が加わり、軽便の需要は伸びていきました。
しかし、戦後になると翳りが見え始めます。そもそも沿線人口が多くなかったことに加えてモータリゼーションの到来で、旅客輸送が減少。また、奥山線自体が国鉄と接しておらず、荷物の積み替えの不便さや、ディーゼル自動車の台頭により貨物輸送も苦戦し、業績を落としていきます。その後、昭和38年(1963年)の気賀口 ― 奥山間の廃止を経て、昭和39年(1964年)に全線が廃止されました。奇しくも、その年は東海道新幹線開業の年でした。

気賀四つ角から三方原方面を望む姫街道(昭和30年代)。[写真提供:上嶋 裕志さん] 同じ角度から見た現在の様子(2024年)。

 

軽便が活気を呼び込む

古くから水上と陸上の交通のハブだったため、公共交通機関として後発だった軽便鉄道の駅舎はまちはずれに作られましたが、全線開業によって奥山への中継地となった気賀は華やかな時代を迎えます。気賀 ― 奥山間が開通した大正12年(1923年)には、方広寺で開通式が行われ、大きな話題になりました。それまでは浜松から奥山まで片道8時間かかっていたのが、約2時間に短縮。浜松の学校が春や秋の遠足の目的地に方広寺を選ぶことも増え、大正12年度は前年度よりも10万人多い47万人を運んだそうです。
ここで、再び気賀のまちに目を向けてみましょう。気賀四ツ角と呼ばれる十字路は気賀宿の東の玄関口とも呼ばれ、北(金指や井伊谷)へ向かう道と南(伊目)へ向かう道が交差する象徴的な場所です。気賀で代々クリーニング店を営み、現在は浜松市細江文化協会事務局長を務める石川隆久さんは、かつてのまちのにぎわいを教えてくれました。
「昭和30年代から40年代頃まではとても景気が良く、街全体が活気にあふれていました。とにかく何でも手に入るので、細江で『まちに行く』と言うのは、浜松市街ではなく気賀に行くことを意味していたんですよ。通りには料理屋も旅館も魚屋も八百屋も呉服屋もテーラーも揃っていて、芸者の置屋もありました」

 

復興を支えたイグサ

気賀四ツ角を中心とした上町通り、落合通り、清水通りはそれぞれ商店がずらり。人と物を運ぶ軽便は、まちに豊かさをもたらしたのです。
「まさに交通の要所です。そうそう、軽便は人だけじゃなくて、みかんやイグサ(藺草)も運んでいたんですよ。今でこそあまり知られていませんが、この辺りの特産品と言えばイグサでした」(石川さん)。
イグサは別名琉球蘭と呼ばれる植物で、茎を畳表やゴザの材料として使います。気賀一帯は、宝永4年(1707年)の宝永地震で起きた津波によって、塩害や田畑の陥没などの壊滅的な被害を受けました。その頃の気賀領主、旗本近藤用随(こんどうもちゆき)は塩害に強いイグサを取り寄せて栽培を奨励。領地の特産品にするために、外部への持ち出しを厳重に管理したそうです。その後、イグサの栽培と畳表の生産が浜名湖北岸地域に広く普及。イグサ農家からみかん農家への転身が増加する昭和30年代頃まで、気賀を支える主要な産業となり、織機を製作する関連産業も生まれました。姫街道沿いに建つ細江神社の境内には近藤氏を祀る藺草神社があるほか、細江神社の西にある浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館では、イグサの栽培と畳表の生産についての資料が展示されており、イグサがこの土地の経済を支えていたことがわかります。
「景気が良かった頃は、誰もが夜なべして働いていたし、どこも儲かっていたんですよ。でも、軽便が廃止されて、1970年代にはオイルショックがあって、当時に比べるとすっかり寂れてしまいました」と石川さんは振り返ります。
それでも、風光明媚で暮らしやすく、浜松市街地へのアクセスも良いエリアとあって、近年は移住者やカフェ、レストランも増加。若い世代へ代替わりをしながら商いを続ける元気な店舗も残っています。災害を乗り越え、長い歴史を紡いできたまちの息吹は、これからも受け継がれていくことでしょう。

多くの店で賑わう姫街道沿いの街並み(昭和50年代)[写真提供:上嶋 裕志さん]

多くの店で賑わう姫街道沿いの街並み(昭和50年代)[写真提供:上嶋 裕志さん]

 

軽く持ち上がると願いがかなう!?
「おもかる大師」

言い伝えを表現した切り絵。[写真提供:上嶋 裕志さん]

言い伝えを表現した切り絵。[写真提供:上嶋 裕志さん]

気賀に建つ国民宿舎奥浜名湖の西に位置する標高433メートルの尉ヶ峯。そのハイキングコースの途中に「おもかる大師」と呼ばれるパワースポットがあります。「おもかる」とは重い、軽いのことです。
昔、気賀に、おきぬという信心深い老婆が住んでいました。おきぬはある秋のこと、栗か椎の実を拾おうと気賀の裏山をさまよっていました。そのうち、萩の花の下に変わった石があるのを見つけました。よく見ると、それはお地蔵さまのようなかたちです。「これはお大師様だ。何かのご縁に違いない」。弘法大師に信仰の厚いおきぬは大喜び。その石を軽々と抱き上げると、近くの松の根もとに据えて、丁寧にお祀りしました。
その後、おきぬは毎日水や花を持ってお参りに来ていましたが、ある日、道順の良いところに石を動かそうとしたところ、重くて動きません。おきぬはあきらめて、動かすのをやめてしまいました。
それからまたしばらく経ったある日、いつものようにお参りをしていると、急に雨が降りだしました。「これは大変、石が雨に濡れてしまう。あの大きな松の木の下に移動しよう」。そう思い動かしてみると、今度は軽く持ち上がったのです。そのうちおきぬは、この石に軽い日と重い日があるのを知りました。
この不思議な石の話はだんだんと人々に広まり、多くの人がお参りに訪れて、石を持ち上げてみるようになりました。そのうち参詣者は石に願かけをするようになったのですが、望みが叶うときは軽く持ち上がり、叶わないときは重くて持ち上がらないそうです。いつしかこの石は「おもかる大師」と呼ばれるようになりました。
今も、さまざまな願いを胸に抱いて「おもかる大師」を訪ねる人は絶えません。もし石が重くて持ち上がらなくても、どうぞ悲観しないでください。辛抱強く努力と精進を続けて「おもかる大師」を訪ねれば、いつか石を軽く抱えられて願いが叶うと言われています。
ちなみに、京都の伏見稲荷大社や今宮神社、新潟の弥彦神社、大阪の大歳神社など、日本各地に「おもかる大師」と同様に、願いがかないやすいかどうかで重さの変わる石「おもかる石」を祀った神社があります。それぞれの「おもかる」の伝承を調べてみてはいかがですか?

いまも多くの参詣者が訪れる「おもかる大師」。

いまも多くの参詣者が訪れる「おもかる大師」。

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