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秋祭りの熱気が街道にあふれる
毎年、秋が近づくと入野町の老若男女の血が騒ぎます。
10月第2土曜、日曜の2日間にわたって繰り広げられる秋祭り。
町内七つの字から7台の御殿屋台が雄踏街道に勢ぞろいし、
威勢のいい引き回しが行われます。
今回は、そんな祭りに懸ける町の人々の熱い想いをご紹介します。

御殿屋台の引き回しが見物

「入野町で祭りといえば秋祭り。もちろん、5月の浜松まつりもあるけれど、メインは何と言っても秋祭りですよ。その証拠に、5月の凧揚げをやっている人の99%は秋祭りにも参加しています。凧揚げだけ、という人はゼロに等しいですからね(笑)」。そう言って豪快に笑うのは、浜松市西区入野町彦尾自治会の髙栁光会長です。
入野町の秋祭りで、最大の見どころは何と言っても御殿屋台の引き回し。彦尾、本所、道陸地、北脇、田端、臨江山、南平という町内七つの字にそれぞれ独自の御殿屋台があり、祭りの日にはそれらの屋台が大集結します。屋台には直径1メートルはあろうかという大太鼓が置かれ、それを若い衆が入れ代わり立ち代わりで乱れ打ち。そこに笛と小太鼓のお囃子が加わって、熱狂的な祭りのエネルギーが大きく渦を巻きます。
やがて各字の屋台は次々と雄踏街道へと繰り出し、東の彦尾から西の南平まで数キロの道中を引き綱で巡行。その間も、腹に響く大太鼓の音と軽やかなお囃子が絶え間なく鳴り響き、祭りのムードは一気に高まっていきます。しかし、2020年、2021年はコロナ禍により祭りは中止になってしまいました。「もし、秋までにコロナウイルス感染が落ち着けば、ぜひ屋台巡行を復活させたい」と、髙栁会長は意気込みます。
入野町では、毎年、8月の終わり頃からお囃子の稽古が始まり、9月中頃から太鼓の稽古がスタート。その時期になると、まちの人々の気分は浮き立ち始め、祭りのムードが徐々に高まっていきます。祭りには、下は小学校低学年から上はお年寄りまで、幅広い年代層の男女が参加。まさに町内総出のイベントです。それだけに、「今年こそは」と開催を待ち望む声が日増しに高まっているといえるでしょう。

江戸時代は遠州最大の村

さて、ここからは入野町のまちの歴史を振り返ってみましょう。佐鳴湖の南岸に位置する入野地区は、奈良、平安の時代から続く由緒ある里。弥生時代の集落跡である伊場遺跡から出土した木簡に「入野」の地名が記されていることから、その長い歴史がうかがえます。江戸時代の入野村は遠州でも最大規模の石高を誇り、文政年間には時の浜松城主・水野忠邦(後に幕府老中として天保の改革を実施)を入野村の庄屋が自宅で接待したという記録があります。明治22年(1889年)には敷知郡入野村、昭和29年(1954年)に浜名郡入野村となり、昭和32年(1957年)に浜松市と合併して入野町となりました。
そんな入野は昔から様々な産業が発展した地域でもあります。農業では、コメ、麦のほか綿花も栽培され、漁業では佐鳴湖のフナ、ウナギ、シジミ、シラウオ漁が盛んでした。昭和に入った頃から織物業が大きく発展し、1軒で50台以上の織機を持つ家もあり、大勢の若い従業員を雇用していました。

 

織物業で発展した昭和30年代

やがて昭和30年代に入ると、入野は空前の「ガチャ万景気」に湧きました。織機を1回ガチャンと動かすたびに、1万円入ってくるほどの好景気です。この頃、入野には80軒ほどの織屋があり、織機の数は約3000台。織屋で働く女性従業員が約3000人もいました。そうした女性従業員は、遠くから入野へ出稼ぎに来て、住み込みで働く10代から20代の若い娘さんたち。彼女たちの憩いの場は、まちに何百軒もあった駄菓子屋で、休日ともなると、店はまるで若い女性たちの集会所のようになったそうです。
このほか、女性従業員のための福利厚生施設として入野機業会館が完成し、お茶やお花の講習や、集会などが行われました。館内には美容室もあり、まさに至れり尽くせりの環境です。さらには近所の入野小学校の講堂を借りて演芸会が催されるなど、まちには大いに活気がありました。しかし、昭和40年代後半になると日米繊維摩擦の影響で、入野の織物業の発展に急ブレーキがかかります。その後は海外からの安い繊維商品の流入もあって、織屋の姿は入野のまちから1軒、また1軒と消えて行きました。
現在、入野町には織物業で栄えたかつての面影はほとんど残っていません。それでも、大型ショッピングセンターの開設や、浜名湖花博に合わせたバイパス道路の開通などにより、まちには新しい発展の波が押し寄せています。これからも入野町は、浜松有数の商業エリアとして輝き続けるでしょう。

町内の老若男女がこぞって参加する秋祭りの光景

町内の老若男女がこぞって参加する秋祭りの光景

祭りに懸ける人々の心意気

さぁ、ここからは再び秋祭りの活気ある光景に目を転じてみましょう。2日間にわたる祭りの初日は宵祭り。彦尾の三社山神社、本所の六所神社、道陸地の八幡神社、北脇の天白神社、田端の若宮神社、臨江山は三峯神社と秋葉神社、南平は八柱神社にそれぞれの御殿屋台と祭りの衆が集まり、字ごとに屋台の引き回しを行います。
そして二日目はいよいよ本祭り。各字の御殿屋台が東の彦尾に集結し、西へ向かって次々に屋台を引いて行きます。引き回しは七つの字の連帯行動で、その年の年番の屋台が先頭となり、全体の進行を仕切ります。2022年10月に秋祭りが実現すれば、年番は彦尾となります。
「実は、彦尾では平成30年(2018年)、90年ぶりに御殿屋台を新調しました(次のコラム参照)。しかし、コロナ禍により秋祭りが2年連続で中止になったことから、まだ祭り本番でのお披露目ができていないんです。ですから、今年の秋祭りには大いに期待しています。新しい屋台を引き回せる日が来ることが、今から待ち遠しくて仕方ないですよ」(髙栁会長)。
かつて、農業、漁業、織物業で発展し、浜松でも有数の賑わいを見せた入野のまち。そうした歴史に対する誇りを胸に、これからも新しい発展を目指す人々の心意気は、秋祭りを通してますます盛んになっていくに違いありません。

 

90年ぶりに新調された彦尾の御殿屋台 祭り本番での初引き回しを目指す

入野町の御殿屋台引き回しは、今から1世紀近く前の昭和初頭に始まったとされています。その中でも、最も古い歴史を持つのが昭和3年(1928年)頃に建造された彦尾鶴亀連の屋台。今回、その屋台が新調されたことで、祭りはまた新たな時代の幕開けを迎えたといえるでしょう。
新たに完成した彦尾の御殿屋台は、高さ約4.4メートル、幅約3.5メートル、奥行き約4.7メートルの一層軒唐破風(いっそうのきからはふ)屋台。森町・天宮神社の境内から切り出した樹齢380年の天然ヒノキなど、貴重な国産材をふんだんに利用しています。建設を主導したのは、遠州を代表する宮大工で、天峰建設大棟梁の澤元教哲氏。まさに秋祭りの「顔」となる威風堂々とした佇まいです。

約5000万円をかけ、平成30年に完成した二代目屋台

約5000万円をかけ、平成30年に完成した二代目屋台

新屋台の魅力はそれだけではありません。屋根や軒下を飾る見事な彫り物(屋台彫刻)も大きな見どころです。まずは屋根の正面を飾る「鶴仙人」と、屋根の後ろに飾られた「亀仙人」。これら2体の彫刻は、先代屋台から継承したものです。また、屋台の脇障子正面には「不動明王」、女性の守り神である「おしゃもっさま」が彫られ、屋台の安全な運行を見守ります。さらに、正面御簾脇(みすわき)の「蝦蟇(がま)仙人」「張果老(瓢箪(ひょうたん)から駒)」など、縁起の良いモチーフの彫り物がふんだんに採用されています。
彦尾自治会では、平成25年(2013年)の建設承認から5年かけて完成にこぎ着け、建設のため地域住民から募った寄付金は約5000万円に達します。平成30年9月、新屋台の落慶式と初引き回しが行われ、地域は喜びに包まれました。
それから4年近くが経過し、思わぬコロナ禍で出番を失った新屋台ですが、晴れて日の目を見る日もそう遠くはありません。彦尾鶴亀連の新屋台が先頭となって、秋の雄踏街道を各字の御殿屋台が行進する。その雄姿が今から目に浮かぶようです。

昭和3年頃建設の初代屋台。当時の人々の誇らしげな顔が並ぶ

昭和3年頃建設の初代屋台。当時の人々の誇らしげな顔が並ぶ

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