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おすすめ探訪スポット!
中沢町
なかざわちょう

人々の鼓動を感じる町
浜松市中区中沢町。遠州信用金庫が本店を置く
この町を特集し、町の生い立ちや浜松まつりへの思いなど、
様々な角度から掘り下げてみたいと思います。
さて、中沢町にはどんな魅力が隠れているのでしょうか。

「浜松市全図」より一部転載(大正7年作成/浜松市立賀茂真淵記念館蔵)

「浜松市全図」より一部転載(大正7年作成/浜松市立賀茂真淵記念館蔵)

かつては畑の広がる田園地帯

浜松城の500メートルほど北に位置する中沢町。まずは町の歴史をひもといてみましょう。町の古刹・常楽寺に伝わる天正18年(1590年)の古文書には、「遠江国濱松庄中澤常楽寺領之事(とおとうみのくにはままつのしょうなかざわじょうらくじりょうのこと)」との記述が見られ、戦国時代にはすでに中澤の地名があったことがわかります。他にも昔の様子を窺うことができる資料として、慶長年間の「浜松藩郷村帳」があり、そこには石高が64石、ただし畑のみが6町余あると記載されています。また延宝6年(1678年)の「浜松町村帳」には村高48石、家数10軒という記述も。さらにそこから時代が150年ほど下った天保5年(1834年)の「遠淡海(とおつとうみ)地志」には、村高64石、戸数30戸とあります。これらの資料から、江戸時代を通じて人口の変化も少なく、町域がほぼ畑だったことがわかります。

昔の中沢町を写した貴重な一枚(「中沢だより」から一部転載)

昔の中沢町を写した貴重な一枚(「中沢だより」から一部転載)

 

中沢の地名はどこから?

主な説は①江戸時代の書物「遠江国風土記伝」の「池川の下流で沢になるところ」という記述、②三方原台地の地下水が常楽寺付近で沢を形成したから(加藤鎮毅著「あの町この町」)、③常楽寺の山号である中澤山(ちゅうたくさん)から。いずれも決定打ではなく、地名の由来は依然として謎のようです。

 

大正時代、急速に発展

戦国から江戸、明治とほぼ同じ規模のまま推移してきた中沢町ですが、大正時代、町が隆盛する出来事がありました。それは大正5年(1916年)、日本楽器製造(現ヤマハ)株式会社の本社・工場が中沢に移転してきたことです。これが契機となって、多くの人々が町に移住。メインストリートの二俣街道は、昭和40年代ごろまで「二俣銀座」と呼ばれるほど様々な商店が軒を連ね、賑わっていたということです。
その後、町を通る道路も次第に数を増し、昭和43年に市道中野町三方原線、昭和45年に国道152号線が開通。その二つの道が交差する中沢町は、市内屈指の交通の要衝となりました。しかし、車の往来は盛んになっても住みやすさは変わりません。町の西側の丘陵地には村社八幡宮や遠州信貴山、常楽寺などの寺社、市営墓地公園、中沢緑地など、人々が憩う緑の環境が残っています。

住民自らが大切に育てる町

今回、特集の編集にあたり、地域の皆様にお話を伺う機会がありました。そこで印象に残ったのは、自分たちの町をとても大切に守り、育てているということでした。たとえば、「子どもを守る会」のこと。この会は町内に不審者が出没したことを契機に、「自分たちで子どもの安全を守ろう」と平成19年に有志の手で組織されたものです。日常的にパトロールや定点観察を行い、令和2年度には年間160回以上実施するなど、まさに町の守護神のような存在です。また、お年寄りが集う「ときわ会」も自主的に運営。「まちづくりは自分たちの手で」という共同体としての高い意識を感じることができました。

自治会の皆さんが工夫を凝らして編集・発行する広報誌「なかざわ」

自治会の皆さんが工夫を凝らして編集・発行する広報誌「なかざわ」

 

昔から変わらない中沢町のまつり

初子の誕生を祝い、町の子どもたちの健やかな成長を願って、地域みんなで祝い合う浜松まつり。花火の合図で5月の大空ヘ舞い上がる凧揚げと、豪華絢爛な美を競う御殿屋台の引き回しが魅力です。170以上の町が参加する凧揚げでも、80台以上の屋台が参加する御殿屋台の引き回しにおいても、中沢町は昔からのまつりのスタイルを受け継ぎ、浜松中の人々の注目を集めています。

昭和34年に建造された中沢町の御殿屋台

昭和34年に建造された中沢町の御殿屋台

昭和30年頃、屋台の前で初子を抱いて記念撮影

昭和30年頃、屋台の前で初子を抱いて記念撮影

 

凧揚げの起源を探って

中沢町の凧揚げの始まりを記す資料や伝承がなく、確かなことはわかっていません。ただ、明治33年(1900年)に「凧印・模様が決まる」(「浜松の凧・屋台」山崎源一著)という記録が残っています。そこには、明治から大正の初頭に、中沢町の凧印が作られていたことを示す絵が残されており、遅くとも大正5年にはまつりに参加していたと考えられています。

60年以上の歴史ある屋台

令和元年、中沢町の屋台は建造から60年を迎えました。豪華絢爛な彫刻に彩られた「軒唐風入母屋造(のきからふういりもやづくリ)」の屋台。それ以前の屋台については、近年まで謎でした。しかし、ある写真の発見から当時の屋台の存在が明らかになります。紀元2600 年を迎えた昭和15年、国民を挙げて祝ったこの年に、中沢町でも祝いの掲示物を掲げ、町の人々が屋台と撮影した写真の発見です。この写真により、初代の屋台の存在が明らかとなり、おそらく大正時代には建造されたのではないかと考えられるようになりました。今後も新たな証拠の発見が待たれます。

昭和15年、紀元2600年を祝った際の記念写真

昭和15年、紀元2600年を祝った際の記念写真

 

温故知新の町、中沢町

今より400年以上前から、様々な人の手で形作られてきた中沢町。現代の人々も先人の思いを受け継ぎ、自らの手で町をつくる気概にあふれています。
温故知新の町、中沢町。これからどんな新しい未来が描き出されるのか、さらに期待がふくらみます。

昭和30年代頃の凧揚げ風景

昭和30年代頃の凧揚げ風景

 

戦国こぼれ話「火燈山(ひともしやま)伝説」

火燈山比定地付近の現在

火燈山比定地付近の現在

時は元亀3年(1573年)、三方原合戦の時のこと。「武田軍を欺(あざむ)くために笥火(かがりび)を焚いた直径1間ほどの丘が天林寺山の北東約1町の『火燈(ひともし)山』の水田中にある」と「曳馬拾遺(ひくましゅうい)」(杉浦国頭/文政3年・1820年刊)に記されています。
いくさに破れた家康一行が敵の夜討ちに遭わぬよう、笥火を焚いて虚勢を張ったといわれる火燈山。戦国ロマンあふれる伝説がこの中沢町には眠っているのです。
火燈山の場所は、上に掲載した大正7年発行の浜松市全図に見ることができます。この地図には当時の字が記載されていますので、二俣街道沿いを探されるとすぐにわかると思うのですが…。おそらく迫りくる敵(武田方)を迎え撃つために、急いで集めた雑木を水田の中で山のように積み上げたものではなかったかと推察されます。さて、いかがでしょう。見つけられましたか?

 

夜の闇に浮かぶ華麗な屋台

屋台の解説文には「屋台彫刻は豊かな題材から選び、夜の帳(とばり)の中で灯りに浮かぶ陰影に無限の物語が始まる」とあります。その技と智慧が結集された彫刻を何点かご紹介します。

右手にある欄間は三保の有度浜を舞台にした伝説「天人の羽衣」のー場面を掘り上げたもの

右手にある欄間は三保の有度浜を舞台にした伝説「天人の羽衣」のー場面を掘り上げたもの

厚さ25cm 、幅82cm、長さ218cm にも及ぶ竜の彫刻。樹齢300年以上のけやき1本造リ。市内でも有数の品

厚さ25cm 、幅82cm、長さ218cm にも及ぶ竜の彫刻。樹齢300年以上のけやき1本造リ。市内でも有数の品

中国の史記に登場する偉人、韓信の「股くぐり」を掘ったもの。無益な殺生を避けた智慧を表すシーン

中国の史記に登場する偉人、韓信の「股くぐり」を掘ったもの。無益な殺生を避けた智慧を表すシーン

左手の欄間は富士市に伝わる「かぐや姫」の一場面から

左手の欄間は富士市に伝わる「かぐや姫」の一場面から

 

 

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