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かいたくのれきしをつなぎ、みらいへひろがる
開拓の歴史をつなぎ、未来へ広がる
浜松市北部に広がる初生町(おつおいちょう)。明治時代、何もなかった原野を士族や近隣から来た農民たちが切り開き、その後、三方原用水の完成によって豊かな実りが育まれ、全国有数の農産地へと発展しました。
さらに、姫街道や金指街道、東名高速道路、テクノロードと、時代とともに交通網が整備され、人や物が行き交う町へと成長。
開拓者精神を受け継ぎながら、歴史と暮らし、新しい賑わいが心地よく調和する町。そんな初生町の魅力を探ります。


曳馬野駅にて気動車からバトンタッチし、浜松方面へ出発する電車出典:「遠州鉄道奥山線写真アルバム」(浜松市立中央図書館所蔵)
士族が開拓した
不毛の地
初生町といえば、浜松北部エリアの交通の要衝というイメージがあります。今でこそ、住宅や商業施設が多く建ち並んでいますが、かつては水の乏しい、荒れ果てた原野でした。そんな不毛の地に、明治2年(1869年)、江戸幕府の滅亡で失業した士族たちが入植し、開拓したのが初生町の始まりとされています。
刀を鍬に持ち替えた士族にとって、農業に向かない、赤土の痩せた土地を開墾する作業は苦難の連続でした。それでも先人たちは互いに励まし合い、懸命に畑を耕して今日の初生町の礎を築いたのです。
軽便鉄道の開通と曳馬野(ひくまの)駅
初生町のルーツをひも解いたところで、交通に目を向けてみましょう。今の東海道本線が全通したのは明治22年(1889年)のこと。しかし、鉄道のない気賀や金指から浜松に行くには、4~5時間かけて歩くしかありませんでした。引佐で採れる農産物は荷車で運び、食料や雑貨は肩に背負って運んでいました。
そんな時間と労力の浪費をなくそうと、小さな機関車で人や物を運ぶことになり、大正元年(1912年)に浜松軽便鉄道株式会社が設立されました。元城から金指までの軽便鉄道が開通したのは大正3年(1914年)。これにより、三方原から浜松へは約35分で行けるようになりました。大正12年(1923年)には浜松から奥山までが全通、奥山まで約2時間で行けるようになり、奥山半僧坊へは日帰りで参拝できるようになりました。
軽便鉄道は戦災で大きな被害を
受け、昭和22年(1947年)、遠州鉄道と合併し、遠州鉄道奥山線となりました。奥山線は利用者の増加とともに近代化が求められ、昭和25年(1950年)、起点の東田町駅(今のクリエート浜松付近)と曳馬野駅(今の遠鉄ストア初生店付近)間が電化されました。これにより、曳馬野駅から東田町駅まで25分で行けるようになり、通勤や通学も便利になりました。翌年、曳馬野・奥山間にはディーゼルカーが導入されました。曳馬野駅までは30分毎、それより北は1時間毎の運転のため、駅では30分も待たされることもあり、駅前にあったパンとお菓子の松屋や青果のエビスヤはこのお客さんで繁盛していたそうです。
最盛期は年間約285万人が利用した奥山線は、オートバイの急増やバスの大型化で利用者が減り、昭和39年(1964年)に廃止されました。人々の貴重な「足」として活躍した軽便鉄道は姿を消しましたが、廃線跡を活用した道路があります。それは遠鉄ストア初生店付近から北へ向かう「もくれん道路」で、平成15年(2003年)に整備されました。春先、延長3.5キロの沿道に、大きな花弁を持つ182本のハクモクレンの花が満開になり、道行く人やドライバーの心をなごませます。
曳馬野駅跡にできた遠鉄バスの三方原営業所出典:「みかたはら 三方原開拓150周年記念誌」
曳馬野駅があった交差点の現在の様子
昔と今が交差する金指街道
次に、初生町のメインストリート、金指街道を紹介します。国道257号線としても馴染み深いこの道は、浜松市中心部から三方原を通り、金指、井伊谷、伊平方面へ向かう浜松北部を代表する歴史街道です。
明治時代、馬車や荷車が通りやすいように整備され、現在の道路に近いルートになりました。その後、自動車の増加、三方原台地の開発、工業団地や住宅地の造成によって、地域の主要道路へと変貌を遂げました。
今の金指街道を見て、畑が住宅地になった、大型店舗が増えた、交通量が増えたという印象を持つ方も多いのではないでしょうか。
畑地が残る初生町上空。一番右が金指街道
商店街の記憶とまちの景色
そんな悠久の歴史を持つ金指街道ですが、昭和29年(1954年)に初生が浜松市に編入されると、まちの風景も変わってきました。そこで、昭和35年(1960年)から初生町でクリーニング店を営む鈴木八郎さんにお話を伺ってみました。
「うちが開店した65年前は、この辺りは見渡す限り畑でした。道路もまだ舗装されてなくて、雨の日は道がぬかるんで泥だらけになるし、西風が強い日は、北星中学から砂埃が舞い込んできました。強風といえば、松林に組んだ櫓に大根がいっぱい干してありましたね。カーテンみたいに壮観でしたよ」と、89歳で今も現役の八郎さんが昔を懐かしみながら語ってくれました。
東名高速道路が開通した昭和44年(1969年)頃から商店や住宅が一気に増え、昭和50年(1975年)代の後半まで、街道沿いは活気に満ちていたそうです。
まちと暮らしを変えた三方原用水
初生町を語る上で、忘れてはならないのが三方原用水です。昭和30年代までの三方原台地は水がない土地でした。標高が高いため川の水を引けない、地下水が低い、畑が乾きやすいの三重苦のため、農家は慢性的な水不足に悩まされていました。
転機となったのが昭和42年(1967年)の三方原用水の通水です。秋葉ダムから天竜川の水を15キロメートル引いて、三方原台地へ送るという一大事業でした。この用水ができたことで、野菜や果物の栽培が安定して行えるようになりました。
また、上下水道も整備されたことに伴い、金指街道沿いには商店が増え、病院が建ち、学校や住宅団地ができ、大型店が進出。遠州信用金庫の前身である引佐信用金庫三方原支店も昭和41年、三方原地区で最初の金融機関として開店しました。
このように、三方原用水は、農業の発展だけでなく、人口増加や住宅建設、商業施設の進出まで後押しし、初生町発展の立役者となったのです。

現在の遠州信用金庫三方原支店
最先端技術を支える交通の玄関口
平成以降、初生町は都田テクノロードの開通によって、世界的な企業が集積する工業団地・都田テクノポリスへのアクセスが向上。それに伴い、浜松の産業を支える玄関口としての役割も担うようになりました。
明治時代から続く開拓者精神を受け継ぎ、農業・商業・工業と人々の暮らしが共存する初生町。時代の変化に柔軟に呼応してきたたくましいまちが、これからどのように発展していくのか楽しみです。
刀を鍬に持ち替えた士族の覚悟が伝わる
刀を鍬に持ち替えた士族の開墾作業 画:鈴木光子さん
初生という町名は、士族による三方原開拓と深く関係しています。明治維新によって武士の身分制度が廃止され、多くの士族は俸禄(給料)を失いました。政府は失業した士族の救済策として、全国各地で荒地の開拓事業を進めます。当時の三方原台地は現在のような畑作地ではありません。赤土で水が乏しく、強い季節風が吹くという農業には不向きな土地でした。
そこへ東京などから移住してきた士族たちが鍬を持ち、畑を耕すことを始めたのです。彼らはそれまで農業経験はなく、生活は非常に苦しかったと伝えられています。そんな開拓生活の中で、士族の一人である武藤忠詮(ただのり)が仲間たちに向かって、「初めて生まれたような気持ちでこの地で頑張ろう」という意味の言葉をかけて鼓舞したそうです。武士としての人生は終わった。
しかし、農民としてもう一度新しい人生を生きようじゃないか。そんな決意を表した言葉から「初生」という名前がつけられたとされています。
もともと、この地に正式な名称はありませんでしたが、明治13年(1880年)に三方原村が成立。大正期に入ると戸数が増え、村は1~5の区に分けられました。そして昭和29年(1954年)、三方原村は浜松市と合併。翌年、各区で新しい町名を決める際、旧1区の住民は開拓者たちの精神を伝える由緒ある名称として「初生」を町名としました。提案したのは佐藤隆重さんと言われています。
「初生(はつおい)」という二文字には、人生を一からやり直す覚悟という意味が込められている、そう考えると、この町名の重みがよくわかります。
三方原大規模開墾計画として県が三方原村追分に作った水田(昭和5年ごろ) 出典:「みかたはら 三方原開拓150周年記念誌」
【参考文献】
わが町文化誌 三方原/浜松市立三方原公民館編
「みかたはら 三方原開拓150周年記念誌」/三方原開拓150周年記念祭実行委員会編
はままつ町名の由来/神谷昌志著


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