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おすすめ探訪スポット!
積志地区
せきし

歴史ロマンに彩られた活力あるまち
飛龍街道と遠州鉄道西鹿島線(赤電)を南北の軸として、
東西に広がる積志のまち。かつては浜松有数の農業地帯として栄え、
近年は交通の利便性によって新規住民の流入が大幅に増加。
これに伴って商業地としても活性化しています。
そんな積志のまちは、平安から江戸、明治に至る歴史ロマンの宝庫。
地域の歴史の再発見によって、今後、まちの魅力はさらにアップしそうです。

坂上田村麻呂の伝説を伝える有玉神社の境内(左の社殿が俊光将軍社)

坂上田村麻呂の伝説を伝える有玉神社の境内(左の社殿が俊光将軍社)

今も残る「有玉伝説」

浜松市東区有玉南町に鎮座する有玉神社。積志地区でも指折りの伝統を誇るこの神社に、摩訶不思議な「有玉伝説」が残されていることを皆さんはご存知でしょうか。
それは今から1200年以上前、平安時代の初期にあたる延暦14年(795年)のこと。時の桓武天皇が征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に東国(現在の関東地方と東北地方)征伐を命じたため、田村麻呂将軍は大軍を率いて京の都を出発しました。そして、その年の2月、軍勢は三方原台地東端の舟岡山(現在の浜松医科大学付近)に到着したのです。
ところが、当時の三方原台地と磐田原台地の間は天竜川の氾濫により広大な海となっていて、その海には恐ろしい大蛇が棲みついていました。大蛇が暴れることによって海は常に荒々しい波が渦巻き、とても舟を渡すことができません。困った将軍は、近くの村にある潮海寺の薬師観音にお参りし、「大蛇退治」のために七日間の祈願を行いました。
そして「今日で満願」という七日目の朝、参拝に出ようとした将軍の前に一人の美しい娘が現れました。「そなたは何者じゃ?」と問われ、「私はこの近くの村の者です」と答えた娘の美しさに心を奪われた将軍は、祈願を忘れて娘と仲睦まじい時間を過ごし、満願の参拝を破ってしまいました。後で「しまった!」と将軍は思いましたが、不思議なことに翌日の海は波もなく穏やかに静まり、東征軍を乗せた舟は無事に東岸へと渡ることができました。将軍は娘に「必ず帰って来る」と固く約束し、東へと向かう船に乗ったのでした。
それから数カ月後、東国を平定して使命を果たした将軍は、意気揚々と舟岡山に凱旋。陣所に着くや否や、あの美しい娘のもとへと走って行きました。「会いたかったぞ!」。こうして二人は、幸福な日々を送ったのです。
やがてある日のこと、娘は将軍にこう告げました。「私は近くお産をします。ついては、四間四方のすき間なく囲った産屋を建ててください」。将軍が言われたとおりに産屋(うぶや)を建てると、娘は「これから七日の間、決して中を見てはいけませんよ」と言います。最初のうち、将軍は娘の言葉に従って中を見ませんでした。しかし、六日目の朝、とうとう我慢しきれなくなってすき間から覗いて見ると―。何と、中では大蛇が小さな赤ん坊を長い胴体で巻いて、舌でぺろぺろと嘗め回しているではありませんか。
驚いた将軍が戸を蹴破って産屋に入ると、大蛇はたちまち娘に変身し、悲しげな声でこう訴えました。「実は私は、ここの海に3000年間棲む大蛇です。薬師観音への祈願を止めさせたくて、あなた様に近づきましたが、今ではあなた様の御子を産むまでの気持ちになりました。どうか私を退治しないでください」。それを聞いた将軍は「わかった。許してやろう。その代わり、海で暴れて人々を困らせることはもう止めてくれ」。娘は感謝しつつ赤ん坊を将軍に預け、「その子に母の形見としてこれを」と、一つの玉を将軍に手渡します。そしてまた大蛇の姿に戻り、海中深くに姿を消したのでした。
それから十数年後、田村麻呂将軍は再び東征の軍を舟岡山まで進めてきました。軍中には、かつて大蛇に産ませた一子・俊光もいます。その時、目の前の海は昔のように激しく荒れていましたが、俊光は将軍に向かって「父上、私が波を鎮めてみせます」と言いました。そして懐から母の形見の玉を取り出し、「母上、どうか私たちをお助け下さい」と念じて、玉を海中に投げ入れたのです。するとどうでしょう。海水はあっと言う間に引いて、見渡す限りの干潟となりました。
この干潟にやがて人々が移り住み、村が誕生した頃のこと。舟岡山の東に毎夜、妖しい光が見え、村人たちがその光を探してみると、そこに1個の玉がありました。見付けた玉をお祀りしたのが有玉神社で、玉があった場所を有玉と呼ぶようになったと言われています。現在、有玉神社の本殿の隣には田村麻呂将軍と俊光を祀った「俊光将軍社」があり、不思議な伝説を偲ばせています。

万斛庄屋公園に残る旧鈴木家の長屋門

万斛庄屋公園に残る旧鈴木家の長屋門

家康公ゆかりの万斛庄屋公園

さて、田村麻呂将軍の時代から時は移って、元亀元年(1570年)のこと。大河ドラマ「どうする家康」で注目される徳川家康公はこの年、三河から遠江に本拠地を移し、浜松城を築きました。新たな領国経営に乗り出した家康公は、早速、家臣に命じて地元の村々の調査を始めます。すると、現在の東区中郡町付近に「万斛(まんごく)」という村があることがわかりました。
「何、万斛村とな!?百万石の万石に通ずる縁起の良い名じゃ!」と家康公は大喜び。そこで、万斛村の長である鈴木権右衛門を周辺の村々を取り仕切る代官に取り立て、なおかつ家康公と直接謁見できる「独礼庄屋」という特権的な地位を与えました。また、天正7年(1579年)、家康公は阿茶局(あちゃのつぼね)という側室を迎えますが、その局を万斛村の権右衛門の屋敷に預けました。そして鷹狩りなどに出かけた際は必ず権右衛門宅に寄り、「阿茶はおるか?」と声をかけたそうです。
阿茶局は、後に二代将軍・秀忠の養母となり、奥向きの諸事一切を家康公に任されるほど才知に富んだ女性。また家康公を補佐するために戦場にも赴き、大阪冬の陣では豊臣家との和睦に貢献するなどの成果を上げました。そのことから、「家康公に最も信頼された側室」と言われています。そんな優れた女性が積志地区の中郡町と関わりがあったことは、地域にとって大きな誇りといえるでしょう。
「独礼庄屋」の鈴木家は江戸時代を通じて地域で大きな存在感を示し、明治に入ってからも豪壮な庄屋屋敷を建てるなど大いに栄えました。その屋敷跡は、現在、「万斛庄屋公園」として整備され、地域住民の憩いの場、新たな観光スポットとして賑わいを見せています。この公園は、建屋を改修・運営する事業者を市が都市公園法に基づくパークPFI(公募設置管理制度)で募集し、民間活力を利用して整備したもの。当初は屋敷の長屋門を除き、母屋、離れ屋、弓道場などの建造物を撤去して、広場にするのが市の方針でした。しかし、「NPO法人 旧鈴木家跡地活用保存会」の働きかけにより、市が方針を切り替え、パークPFI方式による建屋保存が実現したのです。
改修された母屋と離れ屋は、古民家レストラン「万斛庄屋屋敷 鈴松庵(れいしょうあん)」(経営・松川電氣株式会社)となり、2023年3月にオープン。テーブルと椅子を置いた和室で本格的なフレンチを楽しみながら、広い縁側を通して風情ある庭を眺めることもでき、和と洋が融合したこのお店は、早くもアンテナの高いグルメから注目を集めています。

美しい庭園を見渡せる「鈴松庵」の店内

美しい庭園を見渡せる「鈴松庵」の店内

「鈴松庵」のランチタイムは午前11時から午後2時まで。肉または魚をメインとするコース料理を2200円からという手ごろな価格で提供しています。また、飲み物やケーキの提供もあります。2023年7月からは、予約制で夜の部(午後6時~8時30分)も開始されるそうです。ぜひ、ご賞味ください。

「鈴松庵」のランチメニュー(鶏肉のメイン料理)

「鈴松庵」のランチメニュー(鶏肉のメイン料理)

「積志銀行」が地名の由来

それでは最後に、地元の皆さんもあまりご存じない「意外な事実」をお伝えしましょう。それは積志という地名の由来です。「積志」を訓読みすると「志を積む」。どうやら、そこに由来を知るヒントがありそうです。
地名誕生の発端は、明治6年(1873年)、有玉、半田、小松、内野の4カ村内に小学校1校と3分校が開設されたこと。これらの学校は地元有力者の寄付金と生徒の月謝によって運営されました。しかし資金は常に不足しがちで、開校からたった1年で莫大な負債が発生したといいます。
「これではいかん」と憂えた当時の区長らは、明治8年(1875年)、講社という経済的共同組織を設立。村人たちに一口1円で加入を募り、加入者には毎月の積み立てを義務付けました。積立金は利用者に貸し付け、その利子の一部を学費に充てつつ、負債を償還。講社は「地域住民一人ひとりの志を積む」という意味で「積志講社」と名付けられました。
明治21年(1888年)、積志講社は資本金1万円の無限責任積志社に改組します。明治32年(1899年)には、銀行条例に基づき資本金12万円の株式会社積志銀行に移行。教育機関に多額の資金を提供して、地域に貢献しました。こうした偉業は地元住民の尊敬を集め、明治41年(1908年)、2村1区の統合で新しい村名を決める際に、その名を「積志村」と決定されました。
このように、会社名から地名が付けられたケースは全国でもほとんど例がないと見られ、積志という地域のユニークさを際立たせるエピソードともいえそうです。
※参考資料:「わが町文化誌 積志の流れ今むかし」

積志協働センターの玄関前にある「積志創立30年記念碑」

積志協働センターの玄関前にある「積志創立30年記念碑」

 

風船がつないだ積志と武生の子どもたちの友情

風船交流60周年を記念して、積志小の校庭から放たれる色とりどりの風船

風船交流60周年を記念して、積志小の校庭から放たれる色とりどりの風船

今から約60年前の昭和36年(1961年)11月23日の午前11時。武生東小学校(福井県越前市)3年3組の児童たちは、学校の屋上から手紙を付けた八つの風船を大空に飛ばしました。そして、その4時間後の同日午後3時頃。浜松市大瀬町の畑で麦まきの手伝いをしていた少年(当時・積志小学校4年生)は、木に引っかかった風船を発見します。風船に付いていたのは、武生東小の児童たちが書いた「遠くの子どもたちと友だちになりたい」という手紙。そう、武生のまちから放たれた風船が遠く南アルプスの山々を越え、はるばる積志地区に到着するという奇跡のような出来事が起きたのです。
翌日、少年は拾った風船と手紙、そして自身が書いた返信の手紙を積志小に持って行きました。校長先生は喜んで、早速、返信の手紙を武生東小に送りました。これをきっかけに積志小と武生東小の交流が始まり、翌年からは両校の児童による文通と相互訪問が実現。以来、こうした行事は恒例となり、遠く離れた二つの小学校は固い友情の絆で結ばれました。
これについて、積志小の中谷好一前校長はこう語ります。「2022年6月、武生東小の5、6年生が積志小を訪問。10月には、積志小の5年生が武生東小を訪問することができました。コロナの間は相互訪問ができず、残念な思いをもっていましたが、3年ぶりに直接対面による交流ができて、感激しました」。

積志小内に移設された「風船落下の地の碑」

積志小内に移設された「風船落下の地の碑」

また2022年11月、それまで風船落下地の大瀬町(現在の大瀬小学校付近)にあった記念碑「風船落下の地の碑」が積志小の校内に移設されました。積志小から2キロほど離れた場所にあった碑が校内に設置されたことで、児童は、交流の原点に常に接することができています。
風船飛来の“奇跡”をきっかけに、60年以上も続く両校の心温まる交流は、これからも末永く地域を越えた友情を育んでいくでしょう。

 

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