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かさいえりあ
祭りがつなぐ人とまち 笠井エリア
肥沃な遠州平野の中央に位置する笠井エリアは、古くから人や物が行き交う「商いのまち」として発展してきました。
市(いち)が立ち、商人が集い、住民が力を合わせてまちを支えてきた歴史の象徴ともいえるのが、
新春の「笠井観音だるま市」と夏の「笠井まつり」です。
かつてのにぎわいと人々の想いを受け継ぐ、笠井の二つの祭りをご紹介します。

大正から昭和初期の笠井の市の風景
市が育てた商いの拠点
笠井の市がいつ始まったかは定かではありませんが、古い文献によれば、少なくとも江戸時代には六斎市(月に六度の市)が定期的に開かれていました。徳川三代将軍家光公の時代には、浜松城下の塩町でしか扱えなかった塩の販売が特別に許され、二俣や森町、天竜川流域などから商人や買い手が集まり、往来は活気に満ちていたといいます。市の日には、住民は自前の農産物、夜なべで作った縄やむしろ、草履などを持ち寄り、米や塩、味噌、油と交換したそうです。
また、外から来た商人に軒先を貸し、取引の場を支える役割を担っていた点も、笠井の市の特徴です。場所も品物も分かち合い、市と暮らしを成り立たせてきたのでしょう。こうした商いのかたちが、笠井を地域の拠点へと成長させていきました。
明治に入ると町制が施行され、笠井は「笠井町」として独立した歩みを進めます。織物関連の工場や問屋、商店が軒を連ね、商業地としての存在感を高めていきました。笠井で織られた笠井織(笠井縞)は、良質な綿と藍を活かした縞模様の木綿として知られ、笠井の市を通じて取引されていました。のちに遠州織物として全国に名を広めますが、その基盤はこの時代に築かれたものです。
しかし、時の流れは次第に笠井町の立ち位置を変えていきます。東海道本線や遠州鉄道の開通によって交通と経済の中心は浜松市街へ移り、往年の活気は徐々に薄れていきます。そして昭和29年(1954年)、周辺の村々とともに浜松市と合併し、町制の歴史は幕を下ろしました。
新春を彩る「だるま市」
笠井が商いのまちとして栄えた時代を今に伝える行事の一つが、毎年1月に福来寺(笠井観音)で開かれる「笠井観音だるま市」です。寺の門前や境内には大小様々なだるまの露店が並び、だるまに無病息災や家内安全を願う参拝客でにぎわいます。手作りならではの温かみのあるだるまの中でも、多くの人々が求めるのが、福来寺の特別な授与品である「金だるま」。昭和40年代に「経済が再び活発になりますように」という願いを込めて生まれた人気の縁起物です。

だるま市でだるまを買い求める女性
だるま市の始まりは明治24年(1891年)。旅商人の伝衛門という人が藤枝のだるまを見て「笠井の初市でも売ってみよう」とひらめいたことがきっかけでした。「小さいものから買い始め、毎年少しずつ大きくすると福が膨らむ」という言い伝えもあり、だるまはたちまち人気を集めたそうです。

だるま市門前の様子
地域の力で守り継ぐ
現在のだるま市は、地域の有志でつくる「笠井だるま市保存会」を中心に運営されています。保存会の田辺好志さんは「子どもの頃は露店が至るところにずらりと並び、綿菓子やおもちゃを手に歩き回るのが楽しい、特別な1日でした」と語ります。観音様のお堂の裏にサーカスや見世物小屋、鯉を売る店が出ていた時代もあったそうです。「1日だけ、駆け抜けるようにふっと終わる祭りだからこそ、毎年だるま市を心待ちにしていたのかもしれません」と懐かしむ田辺さんの言葉が印象的でした。

笠井だるま市保存会の皆様
同じく保存会の山下昭夫さんは「昔は二つの隣保、20数軒だけで運営していましたが、人手不足をきっかけに協力の輪が広がり、今では笠井全体から約100名のボランティアが集まる大きな祭りになりました」と振り返ります。
福来寺に隣接するだるま会館では、「14の祭りのあるまち笠井」や「昭和100年写真展」など、毎年テーマを変えた特別展が開催されるほか、幼稚園児から高校生までの絵画や書道、写真などの作品も並びます。こうした教育機関との連携を通して、住民は幼少期から自然とだるま市に親しみ、3世代・4世代が顔を合わせる機会となっています。
さらに、参加のしやすさと運営の担い手確保を考慮し、昨年から開催日を1月10日から同第2日曜日に変更しました。時代に合わせて柔軟に体制を組み替えながら、だるま市を守り続けているのです。
夏の象徴「笠井まつり」
だるま市が福を呼び込む新春から季節は巡り、夏の「笠井まつり」でまちは再び活気に包まれます。
笠井まつりは、笠井町の春日神社(若倭神社)を中心に、毎年8月14日から16日にかけて行われる祭礼です。明治13年(1880年)頃に始まり、五穀豊穣や無病息災を願う行事として150年にわたり受け継がれてきました。
祭りの中心は古式ゆかしい御神輿渡御。15日の夜、花火の祝砲を合図に神輿が出発します。天狗の面をつけた神・猿田彦が榊を振って道を祓い清め、その後に笠井地区7町の豪華な屋台がゆっくりと進む、荘厳な行列です。笛や太鼓の音が響く中、神輿が来ると沿道で住民が膝をついて拝む古くからの作法が今も守られています。

天狗の面をつけた神による祓い清めに膝をついて拝む人々
笠井まつりには、自治会ごとの気質が色濃く反映されています。笠井上・仲・本町などの各自治会はそれぞれが独自の伝統を持ち、他の自治会と切磋琢磨する気風が屋台づくりや祭りの運営を支えてきました。
江戸時代後期から、代々商売を続ける「おびや」の池田充義さん・大さん親子は、商いを通じだるま市、笠井まつりの両方に深く関わってきました。「商いは人と人のつながりがかなめ。だから、だるま市、笠井まつりも商いのまちだからこそつながりがあって続いてきたのです。その中で遠信さんから多方面でご協力をいただきました。笠井に住む住民と商店、企業の協力によって今もだるま市、笠井まつりは続いています。まちが一つにまとまるのは、祭りがあるからだと思います」と充義さんは語ります。

昭和初期とみられる氏子総代と神輿行列
未来の担い手を育てる
しかし、笠井は今、大きな課題に直面しています。「学校のPTAが解散し、子ども会がなくなり、学校外で子ども同士が顔を合わせる機会が減っています」と大さん。かつては商店街の夜市や七夕まつり、のど自慢大会など、子どもたちが自然と集まるイベントがいくつもありました。しかし、そうした交流の場が少なくなり、縦のつながりも横のつながりも弱まる中で、将来の祭りの担い手を育てることは大きな課題です。そこで、3年前から仲町自治会で新たな取り組みが始まりました。笠井まつりの一線を退いた大さんと有志が企画・運営し、クリスマス会、豆まき大会、新入生歓迎会などのイベントを開催しているのです。「こうした活動を続けていけば、子どもたちの地域への愛着が深まり、大人になってからも色々な行事に積極的に関わってくれるかもしれません。笠井の祭りが文化として続いていくことが、この地域を守る力にもなると思います」と大さん。
そして、充義さんも「笠井は人が助け合ってきた商いのまち。だるま市のボランティアも10人から始まり100人にまでなりました。仲町自治会の取り組みも、いずれ花が咲くでしょう」と未来を見据えて語ります。
地域の大人が次代を担う世代のための場所をつくり続けること。それこそが、笠井の祭りを、そして未来を支える礎になるはずです。

クリスマス会で楽しむ子どもたち
●参考資料
『笠井:わが町文化誌』浜松市立笠井公民館編
新春の空に響く「だるま市の唄(うた)」

だるま市の唄を歌う笠井幼稚園・豊西幼稚園の園児
令和2年(2020年)1月10日、福来寺の境内で「だるま市の唄」が初めて披露されました。この歌のもとになった詩をつくったのは、平成28年(2016年)度の笠井小学校3年3組の子どもたちです。総合学習でだるま市の由来や歴史を調べ、実際に見聞きしたことや心に残った想いを言葉にして、一つの詩にまとめました。

歌詞の1番は、優しいまなざしでだるま市の様子を描いています。
「だるま だるま だるま市 笠井のだるまは 大きさいっぱい 大きくなるたび ふくたまる ころころころころ ころんでも すぐおきあがり りっぱだね」
2番以降は、大小の色とりどりのだるま、だるまに願いを込めるときの作法、訪れる人々の笑顔が広がる光景が素直な言葉でつづられています。
この詩に強く心を動かされたのが、「笠井だるま市保存会」会長の田村滋治さんでした。「この詩をその場限りで終わらせず、歌として残したい」。そう考えた田村さんは、笠井出身の音楽家・石野裕子さんに作曲を依頼します。子どもたちの詩に寄り添いながら、言葉のリズムや温かさを生かした旋律が生まれ、詩は一つの歌になりました。
そして、完成した「だるま市の唄」は子どもたちの歌声に乗って、参拝客でにぎわう境内いっぱいに明るく響きました。その心温まるひとときは、今も多くの人々の記憶に残っています。それ以来、この歌は小学校や幼稚園の子どもたちに歌い継がれているそうです。
ころんでもすぐ起き上がるだるまの姿に、笠井の人々は自分たちを重ねているのかもしれません。長い歴史の中で、産業や暮らしの変化に向き合いながら、何度も立ち上がってきた笠井のまち。その逞しさと前向きな明るさが、「だるま市の唄」の中に映し出されているかのようでした。


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