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おすすめ探訪スポット!
舘山寺町
かんざんじちょう

風光明媚な「浜松の奥座敷」
かつては「浜松の奥座敷」と呼ばれた浜松市西区舘山寺町。
風光明媚な浜名湖と豊かな出湯のまちとして、
今も県内外の人々を魅了しています。
今回は、そんな舘山寺町の古くから続く人々の営みをご紹介しましょう。

大正時代に創業した「旅館山水館」(写真は昭和10年頃)

大正時代に創業した「旅館山水館」(写真は昭和10年頃)

鎌倉期に始まるまちの歴史

舘山寺町の歴史は古く、鎌倉時代に丹波国から大沢氏が役人として下向し、この地に「堀江城」を築きました。また室町時代には越前国から堀江氏が来住し、舘山付近に「佐田城」を築いたと伝えられています。
戦国時代、大沢氏は駿河の今川氏の傘下に入り、城は三河方面への抑えの役割を果たすようになります。しかし、永禄12年(1569年)、堀江城は徳川家康に攻められ、激戦の末、和睦する形で徳川方に降伏しました。
その後、大沢氏は「高家」(こうけ)という家格の高い旗本に任ぜられ、幕末までその地位を保ちます。しかし、明治初期に大沢氏は「万石(まんごく)事件」というスキャンダルで失脚し、堀江城は廃城に。現在、城の跡地は浜名湖パルパルになっており、その遺構を見ることはできません。

昭和2年の愛宕神社鳥居前(門前通り)

観光業が芽生えた大正時代

やがて時は流れ、大正時代に入った頃、舘山寺の周辺で観光業の芽生えが始まりました。きっかけは、本格的な日本料理店「山水楼」の開業です。当時は近代化の波に乗り、浜名湖上では汽船が往来し、周辺を結ぶタクシーやバスも営業を開始しました。これに乗じて、山水楼は「旅館山水館」の看板を掲げ、またレストラン「喜楽亭」も開業しました。
さらに昭和初期には、料理店「小波」が創業。後に「喜楽」「小波館」が旅館業を開始しました。この背景にあるのは、新居・舞阪の漁師たちが海上安全・豊漁祈願のため舘山寺や愛宕神社を参詣し、その後に宿泊したいというニーズが高まったためです。寺社参拝の後には精進落としの宴会が付き物。こうして、舘山寺の下には賑やかな門前通りが形成されるようになっていきました。

昭和初期に建てられた高さ16メートルの聖観音像

昭和初期に建てられた高さ16メートルの聖観音像

また、ちょうどその頃、舘山に新しい「名物」が誕生します。地元住民の奉仕によって建立された高さ16メートルの聖観音像です。湖上を行き交う船にとって、格好の目印となる同像は今も健在。最近は、観音様のお顔が安倍元首相に似ているとして「アベ観音」と呼ばれ、話題を呼んでいます。 こうして、舘山寺町は観光地として徐々に発展していきましたが、この流れは第2次世界大戦により一時中断。陸軍兵器行政本部が駐屯するため、旅館の建物や設備が次々に徴発されました。この本部では戦況打開を図る秘密兵器の開発が行われ、町は軍事一色に塗りつぶされたのです。

 

大正時代の歓迎門には、すでに「舘山寺温泉街」の文字がある

大正時代の歓迎門には、すでに「舘山寺温泉街」の文字がある

温泉の開湯で全国的な人気に

終戦後、各旅館は軍の接収から解放され、舘山寺町は復興への道を歩み始めました。新たに「舘山寺国際観光ホテル」「旅館見晴館」「旅館山喜」などが開業し、町は再び活況を取り戻していきます。そして、昭和32年(1957年)、画期的な出来事が起こりました。「舘山寺国際観光ホテル」の入り口付近で、有望な泉源が掘り当てられたのです。泉質はナトリウム泉で、翌年、温泉審議会に認定され、町民待望の「かんざんじ温泉」がついに誕生したのでした。
昭和30年代、それまで木造だった各旅館は、次々に耐火構造の鉄筋コンクリート造りに建て替えられていきます。また、浜名湖パルパルの前身である舘山寺遊園地が開園し、ロープウェイも開通するなど、町は観光地として大きく進化していきました。おりしも、昭和39年(1964年)に東海道新幹線が開通。舘山寺街道の全面舗装も完了したことで、町には全国から観光客が押し寄せるようになったのです。

 

「小波館」と汽船場(昭和32年頃)

「小波館」と汽船場(昭和32年頃)

年間71万人の観光客が来訪

昭和42年(1967年)、開湯10周年を迎えたかんざんじ温泉を秩父宮妃殿下がご来訪。また新幹線開通による旅行ブームで、一般の観光客も大幅に増えました。昭和44年(1969年)には、東名高速道路が完成して、東京、大阪、名古屋からのアクセスはさらに向上。同年、皇太子(現上皇陛下)ご一家の浜名湖ご来訪で、舘山寺町の知名度もさらにアップしました。
昭和40年代、かんざんじ温泉はまさに黄金時代を迎えます。来客数は毎年30~40%のペースで伸び、これに合わせて新施設が次々にオープン。「舘山寺ロイヤルホテル」「浜名湖パルパル」「ホテル寸座ビラージ」「遠鉄マリーナ」「遠鉄エンパイアホテル」など、魅力的な観光資源がさらに多くの人々を引き付けました。昭和49年(1974年)、オイルショックによる景気低迷で全国の観光地の宿泊者数が減少する中、かんざんじ温泉の年間宿泊者数は過去最高の71万人を記録したのです。

大草山から見た温泉街の夜景

新たな発想で再び黄金時代へ

しかし、昭和50年代後半に入ると、さしものブームにも陰りが見え始めます。旅行ニーズの多様化で団体客が減少し、かつてのような「千客万来」の活況は、徐々に見られなくなりました。人気に胡坐をかき、「何もしなくても客は来る」とうそぶいていられた時代は、もはや過ぎ去ろうとしていたのです。
平成以降、人気の低迷はますます深刻になり、大型旅館の廃業が相次いで、舘山寺の門前通りから賑わいが消えていきました。しかし、平成から令和へと時代が移るにつれ、「このままではいけない」という危機意識が高まり、若者たちを中心に新しいまちづくりへのチャレンジが始まっています。
ピンチの後には必ずチャンスあり。浜名湖と温泉という絶好の地域資源を持つ舘山寺町は、新たな発想を大胆に取り入れることによって、再び黄金の時代を取り戻せるかもしれません。

新たなまちづくりが進む門前通り

新たなまちづくりが進む門前通り

現在のしぶき橋

現在のしぶき橋

浜名湖パルパルは仮面ライダーの聖地だった!

等身大変身ヒーローの元祖であり、今も新シリーズが次々に誕生して子どもたち、時にはママさんも夢中にさせる「仮面ライダー」。実は、昭和48年(1973年)2月放送の第1シリーズ最終話は、浜名湖パルパルがロケ地だったのです!パルパルは昭和46年の開園。その2年後に人気特撮ドラマの舞台となったわけですから、浜松人にはとてもうれしいお話です。
この時、パルパル園内を所せましと暴れまわったのは、仮面ライダー1号こと本郷猛。演ずるのはもちろん、今も俳優、武道家として活躍する藤岡弘、さんです。当時の映像を見ると、藤岡さんが舘山寺ロープウェイのゴンドラの屋根に乗り、大草山に上がっていくスリリングなシーンがあります。また、仮面ライダー1号と2号(一文字隼人)が疾走するジェットコースター上で、悪の秘密結社ゲルショッカーの大幹部・ブラック将軍と死闘を演じる場面もありました。

それにしても、なぜ仮面ライダーはわざわざ舘山寺まで来て、怪人たちと戦ったのでしょうか?それは「浜名湖の湖底にゲルショッカーの秘密基地がある」という設定だったから。最後は仮面ライダー1号、2号が基地に殴り込み、世界征服を企む悪の首領を倒して、地球の平和を守ったのでした。
このコラムの写真は、開園当時のパルパル園内。今では観覧車やロープウェイはリニューアルされていますが、“仮面ライダーの古戦場”の歴史を知るオールドファンには「聖地」と崇められています。

 

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