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豊田エリア
とよだえりあ

人々が集い、文化が花開く 豊田エリア
天竜川の左岸に位置する磐田市。平成17年(2005年)4月に豊田町、福田町、竜洋町、豊岡村と市町村合併しました。
古くから人々が暮らしてきた地域だけに、合併前の各市町村にはそれぞれ特色があり、
それは今も数々の史跡や伝承から見て取ることができます。
今回は、旧豊田町(以下豊田町)の中でも遠州信用金庫・豊田支店のある南側エリアに注目。
歴史やお祭りを通して、まちの変遷をご紹介します。

稲穂が彩る豊かな土地

豊田町の広さは約20平方キロメートル。天竜川扇状地の平野と磐田原台地から成る地域です。磐田原台地では数々の遺跡が発見されており、この周辺では最も早く、約2万年前の旧石器時代には人が住み始めたことがわかっています。豊田町の前身は豊田村。豊かな水田が広がる地域で、その昔、豊田郡であったことが名の由来です。
次に豊田町の成り立ちに触れてみましょう。町村合併推進法を受け、昭和30年(1955年)3月、旧井通村(いどおりむら、以下井通村)と旧富岡村(以下富岡村)、旧池田村(以下池田村)と旧竜洋町の旧十束村(とつかむら)の一部が加わって豊田村が誕生し、昭和48年(1973年)に町制が施行されて豊田町になりました。
豊田町は北の富岡村、南の井通村、西の池田村の3地区に大きく分けることができます。南側の井通は、昔「井(い)」と呼ばれた寺谷用水(てらだにようすい)が村の中心を通っていたことから命名されました。寺谷用水が作られたのは徳川家康の時代。天竜川から水を引く約12キロメートルの用水路が整備されたことで、約2,000ヘクタールの水田を潤すことが可能になり、米作りが飛躍的に安定したそうです。寺谷用水は、天竜川の治水と利水を一体的に行う革新的なかんがい技術導入の先駆けとして歴史的・技術的・社会的価値のある施設と認められ、令和4年10月「世界かんがい施設遺産」に登録されました。

※かんがい:河川や地下水などから水を引き、田や畑へ人工的に給排水すること

 

駅開業がにぎわいを呼ぶ

街の発展を勢いづけた豊田町駅

街の発展を勢いづけた豊田町駅

豊田町の発展を語る時、欠かすことができないのが豊田町駅の開業です。東京駅から神戸駅までを結ぶ、日本最古の鉄道路線であるJR東海道本線。日本の交通と物流の大動脈を担う東西路に、磐田市内で二つ目となる豊田町駅が開業したのは平成3年(1991年)12月でした。新駅設置について打診があったのは昭和59年(1984年)。7年かけて町民待望の開業が叶いました。
開業後は、豊田町駅から浜松駅まで約9分、磐田駅まで約3分で行くことができるようになり、通勤・通学・買い物などの利便性が大きく向上。駅周辺では土地区画整理事業が進みました。
「道路や公園などが整備されて、一戸建て住宅や高層マンションが次々に建ち、まちの風景が大きく変わりました。大型店舗や小型店舗の出店が相次いで買い物が便利になり、暮らしやすくなりましたね」と当時を振り返るのは山岡二三雄さん。豊田町役場を経て磐田市役所に勤め、現在は磐田市自治会連合会豊田支部井通地区長と井通地域づくり協議会会長を兼任しています。
「駅の近くに大きな駐車場ができたので、駅まで車で来て電車を利用する人も増えました。車移動だと渋滞がやっかいですが、電車だとそれを気にしなくていい。とくに浜松がぐっと身近になりました」と話すのは飯田正さん。山岡さんと同じく豊田町役場と磐田市役所の職員を勤め上げ、まちの変化を間近に見てきた人物です。
「豊田町の人口は県内ナンバーワンの伸び率を示した時期もあり、磐田市になる直前には半世紀で約3倍になるほど増加したんですよ」と飯田さん。移住者が増えたことが豊田町駅開業につながり、この地域は大いに活気づいたのです。

<写真提供>磐田市歴史文書館

<写真提供>磐田市歴史文書館

 

祭りの屋台で心を一つに

多くの人で賑わう若宮八幡宮(郷社)祭典

多くの人で賑わう若宮八幡宮(郷社)祭典

江戸時代、東海道が横断する井通村は農村でありながら旅人相手の商いをする家もあったそうです。井通村の住民は東西を行き交う人や物に接する機会が多かった分、新しい情報や文化に対する関心が高かったといわれています。そんな先進的な気質の人々が作り上げたとも言えるのが、若宮八幡宮祭典です。
江戸から明治になり版籍奉還や廃藩置県が行われると、神社は官幣社、国幣社、県社、郷社、村社、無格社にランク付けされました。この影響を全面的に受けたのが豊田町の南側です。周辺の29村の神社が西之島に合祀され、明治7年(1874年)に郷社若宮八幡宮(以下若宮八幡宮)として創建。それまで各村に祀られていた神々は、今も本殿と拝殿の間にずらりと並んでいます。
「我々が子どもだった頃は、境内でふるまわれる甘酒を飲んで、露店で買い物を楽しむ素朴な秋祭りでした。力士を招く相撲大会や闘犬なんかもあってね」と山岡さん。
昔の若宮八幡宮祭典では、力自慢の若者による相撲も盛んに行われたそうです。現在も立派な土俵があり、奉納相撲や子どもの相撲大会なども行われています。
近年の若宮八幡宮祭典が開催されるのは毎年10月中旬の2日間。その代名詞と言えるのが華やかな屋台です。豊田町の南側17地区それぞれが引き回す屋台が境内に並ぶ様子は壮観の一言。多くの人でにぎわう、秋を代表するお祭りです。
豊田町の屋台をまとめた冊子『豊田町の屋台』によると、当初の屋台は軽自動車のシャーシ(骨格部)を土台にしたものが多く、有志が材料を持ち寄り地元大工の指導のもと手弁当で製作したものや、本格的な屋台を業者に依頼したものなど様々だったようです。
「そもそも若宮八幡宮祭典が始まった頃に屋台はなく、各地区の導入時期もまちまちです。大正時代には屋台があったと言われている地区もあれば、昭和後期に登場した地区もあるようです。よそから来た人たちがラッパやお囃子を教えてくれたとも聞いています。そうやっていろいろなやり方を取り入れ、すべての地区で屋台も導入し、今の若宮八幡宮祭典になったのだと思います」と山岡さん。
たとえば浜松まつりの御殿屋台や磐田市掛塚にある遠州掛塚貴船神社例祭の屋台、磐田市中泉にある府八幡宮の例大祭の屋台など、周辺で開催されるお祭りは昔から屋台が大きな見どころでした。それらのお祭りを経験した人やよく知る人がこの地域に移住後、その知識を伝えてきたそうです。
屋台の導入が増え始めたのは昭和後期。おりしも東海地震発生の予測が報道された頃で、地震に備えるために町単位のコミュニティーの結束を促すべく、自治体から助成金が交付された時期と重なります。その助成金や地区ごとにコツコツと貯めた積立金などを活用して、屋台を作る地区もあったようです。
実際に若宮八幡宮に豪華絢爛な屋台が並ぶさまを見ると、屋台を誇りに感じる人たちの心が伝わってきます。古参と新参の垣根を超え、老若男女が力を合わせて準備を進めることで、地区単位の強いつながりが生まれたのでしょう。少子化とコロナ禍による参加人数の減少が懸念されるそうですが、人々の祭りへの情熱はこれからも脈々と受け継がれていくはずです。

街を曳き回された屋台は若宮八幡宮へと集結

街を曳き回された屋台は若宮八幡宮へと集結

 

文化の拠点のまちへ

豊田エリアは豊田町駅周辺の開発によって人口が増え、都市化が進みました。国道1号線が近くアクセスも良いことから、近年は多くの文化施設が集まる文化ゾーンに位置づけられています。
香りをテーマとした「磐田市香りの博物館」、体育施設と文化施設を備えた複合施設「アミューズ豊田」、ガラスや金属などのものづくり体験ができる「新造形創造館」、そして2年前に開館した市民文化会館「かたりあ」などが豊田エリアに集積。中でも先駆的といわれているのが、「ひと・ほんの庭 にこっと」です。
「豊田図書館を改修し、子どもを中心にした図書館として平成30年(2018年)にリニューアルオープンしました。図書館機能と相談機能を融合させた、子育てや学びなどの支援を提供する新しい施設です。保育士が常駐しているので、気軽に相談ができると好評です」と飯田さん。子どもが遊べるスペースがあり、蔵書は児童書約5万冊、一般書約5万冊。栄養士や心理士の個別相談、親子で楽しめる講座やイベントなども開催しており、子育て支援の手厚さが表れています。
古墳時代から人々の暮らしが続く豊田エリア。東海道を往来する旅人や、外部からの移住者も柔軟に受け入れて発展し、今や新たな文化の拠点として存在感を増しています。大切に受け継がれてきたもの、新しく生み出されるもの。訪れるたびに心躍る発見に出会える、魅力あふれるまちです。

子育て支援施設と図書館が融合した「ひと・ほんの庭 にこっと」<写真提供>ひと・ほんの庭 にこっと

子育て支援施設と図書館が融合した「ひと・ほんの庭 にこっと」<写真提供>ひと・ほんの庭 にこっと

<参考資料>新いわた文化財だより 第10号、
豊田町誌 通史編、豊田町の屋台、
寺谷用水土地改良区発行<寺谷用水>、
磐田市立図書館資料<ふるさと発見!井通・青城学府(小・中学生向け)>

 

地域の人々が支える小学校

遠州信用金庫豊田支店の東に位置する豊田南小学校。オレンジ色の時計塔は、どこか西洋の建築様式を感じさせます。公立小学校としては珍しいデザインは、小学校の歴史と深い関わりがありました。

絹本著色西之島学校図 [提供:磐田市教育委員会文化財課]

絹本著色西之島学校図 [提供:磐田市教育委員会文化財課]

「昨年、創立150周年を迎えた豊田南小学校の始まりは、西之島村(現・磐田市豊田西之島)の西之島学校です。明治6年(1873年)、熊谷敬三という豪農が邸内に私塾として開校したのがはじまりで、今も熊谷翁の功績をたたえる石碑が敷地内に建っています」と話してくれたのは、教頭の小澤直輝先生です。
その後、児童が増えて手狭になったのを機に、熊谷翁は校舎の新設を決め、大工を東京と大阪に派遣して学校建設の研究や校舎の設計を進めました。そして、明治8年(1875年)、若宮八幡宮境内に2階建ての洋風木造校舎が完成。塔のような形の3階や美しく彫刻された円柱が立派な校舎でした。
校舎の3階は明治11年(1878年)に防災上の不安から取り壊されましたが、1階と2階の教室部分は昭和29年(1954年)まで西之島学校の後身である井通小学校(現・豊田南小学校)の校舎として使用されました。改称や移転を経て、現在の豊田南小学校に建て替えられたのは平成16年(2004年)。新校舎の時計塔には、明治8年に建てられた西之島学校への想いが込められています。
昔も今も校舎の建て替えは多くの資金が必要ですが、西之島学校の時代から地域の人々が学び舎を支えてきたエピソードがあります。それが「縄(なわ)ない学資金」です。西之島学校は農村地帯にあったため資金調達に苦労しました。そこで熊谷翁が奨励したのが「縄ない学資金」です。「いい学校を作ろう」を合言葉に、村民たちは夜なべして縄をない、わらじやぞうりなどを作って売り、資金を得たといわれています。
「150周年を記念して、PTAの積立金から逆上がり補助器と図書を寄贈していただきました。豊田南小学校はPTAや地域の方々のボランティア活動が特に盛んなんですよ」と小澤先生。「縄ない学資金」の精神は、今も連綿と受け継がれているのでしょう。
豊田南小学校の学校教育目標は「夢に向かって学び合うたくましい子」。「自分から」をキーワードに主体性やたくましさを育み、「学び合い、認め合い、きたえ合い、自己肯定感を高めていく教育」を実施しています。自発的に行動する大人たちの背中を追い、子どもたちは今日も元気に学んでいます。

時計塔をモチーフに取り入れ、立て替えられた校舎

時計塔をモチーフに取り入れ、立て替えられた校舎

 

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