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おすすめ探訪スポット!
赤佐・天竜エリア
あかさ・てんりゅう

古代から続く歴史遺産の宝庫
三方原台地の東端から浜北北部丘陵の南麓にかけてのエリアは、
豊かな自然環境と古くからの文化財に恵まれ、そこを通る散策ルートは
「遠州山辺(やまべ)の道」と呼ばれています。その中でも浜松市浜北区の赤佐地区は、
岩水寺、根堅遺跡など貴重な歴史遺産の宝庫です。
今回は、そんな赤佐地区の魅力をじっくりご紹介するとともに、
そこから少し足を伸ばした天竜・二俣城の歴史をリポートします。

国指定有形文化財に指定された岩水寺駅舎

国指定有形文化財に指定された岩水寺駅舎

旧石器時代の化石人骨を発見

赤佐地区はもともと、明治22年(1889年)に尾野村、根堅村、於呂村の3村が合併した「赤佐村」という行政単位でした。浜北区赤佐地区となった現在も、尾野、根堅、於呂の地名は残り、それぞれ個性ある地域性を保っています。地区の最寄り駅である天竜浜名湖鉄道岩水寺駅を出発点に、主要な歴史スポットを訪ねてみましょう。
まず紹介したいのは、昭和15年(1940年)に開通した旧国鉄二俣線(天浜線の前身)の待合所、プラットホームが現存する岩水寺駅舎。国指定有形文化財に指定されており、かつてこの地域で石灰産業が盛んだった時代には、出荷駅として活躍しました。
「えっ、昔はこの辺で石灰石が採れたの?」と今の若い人は驚くかもしれませんが、かつて根堅には大規模な石灰採石場がありました。戦前から戦後の高度経済成長期にかけて、地区内ではいくつもの石灰工場が操業し、活気にあふれていたといいます。ただ、隆盛を誇った石灰産業もやがて衰退。昭和50年代にはすべての工場が操業を停止しました。
しかし、この石灰採石場は全く違うことで全国的に脚光を浴びます。昭和35年(1960年)から38年(1963年)にかけて行われた採石場での発掘調査で、旧石器時代の化石人骨が発見され、「浜北人」と名付けられたのです。発見されたのは、今から約1万4000年から1万8000年前の頭蓋骨の一部、鎖骨、上腕骨、脛骨など。頭蓋骨、鎖骨、上腕骨は20歳代の女性のもので、身長は143センチ程度と推定されています。
これらは本州で唯一の旧石器時代の化石人骨であり、現在は東京大学付属博物館に所蔵され、浜北市民ミュージアムにレプリカが展示されています。また、発掘現場の根堅遺跡は公開されており、浜北人に関する解説看板が設置されています。

旧石器時代の化石人骨が発見された根堅遺跡

旧石器時代の化石人骨が発見された根堅遺跡

さて、続いては根堅遺跡からほど近い古刹・岩水寺まで足を運んでみましょう。岩水寺は神亀2年(725年)、行基菩薩によって創建されたという浜北区最古のお寺。令和7年(2025年)に開創1300年を迎えます。本堂には、安産祈願、子授け祈願の仏様として知られる子安地蔵尊が祀られます。ふだん非公開の地蔵尊像は、鎌倉時代の仏師、運覚が建保5年(1217年)に京都の六波羅蜜寺で制作したもの。平成23年(2011年)、国の重要文化財に指定されました。

人々の信仰を集める岩水寺の仁王門

人々の信仰を集める岩水寺の仁王門

岩水寺では、毎年2月の第3日曜日に春の大祭である「星まつり」を開催。この祭は、年回りを星回りと見なし、良い年(良い星)はさらに良く、悪い年(悪い星)を良くする開運厄除けの行事として、毎年、多くの参詣客を集めます。また、秋の大祭として行われる地安坊祭では大小二つの神輿と4台の屋台がまちに繰り出し、無病息災、厄除け、子孫繫栄などの願いを奉納します。さらに10~12月の七五三には、地区の内外から大勢の親子連れが訪れ、子どもたちの健やかな成長を祈ります。

鎌倉時代に作られた子安地蔵尊像

鎌倉時代に作られた子安地蔵尊像

このほか、岩水寺の広大な境内には数多くのお堂が点在。本堂の裏山には薬師根本堂、太子堂、十一面観音堂白山神社などがあります。このうち白山神社参道の階段横には御神木の大楠(浜松市天然記念物)があり、かつて三方ヶ原の戦いで敗走した徳川家康がこの大楠の洞に隠れ、武田勢の追跡から逃れたという言い伝えが残っています。

家康が隠れたといわれる白山神社参道の大楠

家康が隠れたといわれる白山神社参道の大楠

新東名工事で多数の遺跡発見

続いて、岩水寺から旧秋葉街道を通って北東に向かい、小高い山上にある静岡県森林・林業研究センターを訪ねてみましょう。優れたスギ・ヒノキ苗木を育成するための種子生産に関する研究などを行う同センターは、「森の科学館(ドングリホール)」などの施設を併設。地域の森林や林業が一目でわかるよう、工夫を凝らした展示を行っています。
また、同センターの南側斜面には7世紀後半に造られた「向野(むかいの)古墳」があります。この古墳は直径18メートル、高さ3メートルの円墳。巨大な石を組み合わせた横穴式石室が開口しており、石室内は大人が立って歩けるほどの高さと広さがあります。赤佐地区には、向野古墳以外にも石室が露出している古墳が3カ所あり、このエリアが古代から栄えていたことを物語っています。

人が立って入れる大きさの向野古墳石室

人が立って入れる大きさの向野古墳石室

そうした赤佐地区に残る「歴史ロマン」は古墳だけではありません。新東名高速道路の建設工事に伴い、平成14年(2002年)から16年(2004年)にかけて、奈良時代の瓦の窯跡の発掘調査が行われました。この窯跡は「篠場瓦窯(しのんばかよう)跡」と呼ばれ、8世紀初めに作られた県内最古の文字瓦が見つかっています。昔、この場所は大きな川に面した河岸段丘で、瓦窯で焼かれた瓦は水運によって遠方まで運ばれました。詳しい調査の結果、篠場瓦窯の瓦や巨大な鴟尾(しび)(大棟の両端に付けられるしゃちほこのようなもの)が浜松市東区和田町の木船廃寺に輸送され、本堂などの屋根に使われたことが確認されています。
さらに、篠場瓦窯跡と同様に新東名工事の過程で見つかった中屋遺跡は、鎌倉時代の有力者が住んだと見られる大規模な方形居館跡。東西160メートル、南北200メートルの広さで、ここから黒漆を塗った鎌倉時代の木製の鞍が出土しました。この時代の鞍が当時のままの姿で残された例は全国でもほとんどなく、平成31年(2019年)、静岡県指定有形文化財に認定されています。

中屋遺跡から発掘された鞍の復元イメージ図

中屋遺跡から発掘された鞍の復元イメージ図

このほか新東名の工事現場では、中通遺跡という縄文前期から鎌倉、江戸に至る集落跡も発見されました。ここからは、炉穴(大きな穴と小さな穴がトンネルでつながっている炉)、集石炉(大きな穴に焼けた石が詰まっている炉)という、縄文時代の調理方法をうかがわせる遺構が多数発見されています。赤佐地区はまさに「掘れば何かの遺跡が出る」という歴史ロマンの宝庫といえるでしょう。
そんな赤佐地区には、まだまだ多くの歴史遺産があります。高根山東麓に鎮座する尾野地区の氏神、金刀比羅神社は、江戸時代後期に整備された建造物が現存。祭典時には、神楽殿で巫女による神楽が奉納されます。また、金刀比羅神社近くの山中には文亀2年(1502年)建立の高根神社がありましたが、2022年9月の台風で境内が土砂崩れを起こし、残念ながら拝殿は取り壊しとなりました。それでも、由緒ある神社がここにあったことは、今後も地区の人々の記憶に残り続けるでしょう。

 

二俣城に伝わる「信康の悲劇」

信康の悲劇を今に伝える二俣城跡

信康の悲劇を今に伝える二俣城跡

さて、ここまでは「遠州山辺の道」の赤佐地区の魅力をお伝えしましたが、そこからさらに北へ足を延ばし、浜松市天竜区二俣にある「二俣城跡」を訪れてみることにしましょう。ここは、徳川家康の嫡男でありながら、「謀反」の疑いを受けて非業の死を遂げた信康ゆかりの地です。
二俣城はもともと今川氏の城でしたが、永禄11年(1568年)、三河から遠江に侵攻した家康が奪取します。しかし、元亀3年(1572年)、遠州・三河侵攻作戦を開始した武田信玄によって二俣城は奪われました。同年12月、三方ヶ原の戦いで家康は信玄に大敗。しかし、その直後に信玄が病で死去し、情勢は大きく変わりました。天正3年(1575年)の長篠の戦いで、織田信長と家康の連合軍は3000挺の鉄砲と馬防柵を駆使した高度な戦術により、戦国最強の武田騎馬隊を撃破。その後、家康は武田から二俣城を奪還しています。この結果、織田徳川の勢力は大いに伸長しましたが、信玄の継嗣・勝頼は健在であり、天下の情勢はまだまだ不安定でした。
そうした中、天正7年(1579年)に一つの不穏な出来事が起こります。信康に嫁いでいた信長の長女、徳姫から父宛に「わが夫、信康は武田に内通している」という手紙が届いたのです。これを読んだ信長は、家康に「信康を切腹させよ」と命令。家康は、武田との戦いで武功を挙げた信康を信じつつも、信長の命令に逆らえませんでした。やむなく、家康は信康を二俣城に送り、そこで切腹させます。この時、介錯人を命じられたのは、家康の腹心で信康の守り役でもあった服部半蔵。しかし、半蔵は主君の子である信康の首に刃を振り下ろすことがどうしてもできません。それを見かねて、検死役の天方通綱が半蔵に替わって介錯したと伝えられています。
当時、21歳だった信康が本当に武田に通じていたのか、真相はいまだにわかりません。家康は信康の菩提を弔うため、二俣に「信康山長安院清瀧寺」を建立。同寺には、信康の遺骸を収めた「信康廟」もあります。また、二俣の人々は信康を「悲運の武将」「文武両道の若武者」として今も慕い、命日などに同廟を参拝しています。

赤佐の人々に慕われた「大原御前」の伝説

赤佐地区には、遠州では唯一の今川氏にまつわる伝承として「大原御前(おおはらごぜん)」という女性の物語が伝えられています。この女性は、駿河太守・今川義元の軍師として知られる太原雪斎(たいげんせっさい)の妻。弘治元年(1555年)、雪斎が死去した後は尼となり、遠江・赤佐の山上に屋敷を建てて暮らしました。女性のもともとの名前は「大(だい)」。大は薬草に詳しく、熱冷ましなどの煎じ薬を付近の岩水村の住民に惜しみなく与えたことから、尊敬の念を込めて大原御前と村人に呼ばれるようになりました。そんな御前の屋敷では、真面目で正直者の吉右衛門という村人が使用人として働き、真心を込めて御前に奉仕していたといいます。

そんなある日、吉右衛門は実家の父が病に臥せったため、屋敷を去らなければならなくなりました。吉右衛門の誠実な働きぶりにいつも感謝していた御前は、「父上の病が少しでもよくなるように」と、自ら煎じた薬をたくさん吉右衛門に持たせてやりました。
その翌年、久々に御前のご機嫌を伺おうと屋敷を訪ねた吉右衛門は、帰り道に見たことのない武士たちが屋敷内を窺がっていることに気付きます。「何だろう」と怪訝に思いながら吉右衛門が帰路についた、その数日後の嵐の夜。誰かが吉右衛門の家の戸をトントンと叩きます。吉右衛門が戸を開けると、そこには全身ずぶぬれの御前が立っていました。驚く吉右衛門に、御前はこう語りかけます。「昨夜、わが屋敷が何者かに襲われました。私も家来とともに薙刀(なぎなた)で戦いましたが、多勢に無勢で敵いませんでした。やむなく私は、屋敷下の大岩から白田川に身を投げたのです」。吉右衛門は「おいたわしや」と言いながらうつむいて涙を流し、ふと顔を上げると御前の姿は霞のように消えていました。

大原御前を供養する祠が今も残る

大原御前を供養する祠が今も残る

数日後、御前が身を投げたという白田川の堤に来てみると、そこには御前が大切にしていた櫛やかんざし、短刀が打ち上げられていました。「ああ、御前はやはり命を落とされたのだ」と覚った吉右衛門は、櫛などの遺品を自宅に持ち帰ります。そして、家の北に小さな祠を建て、「大原御前」の名を彫り込んでねんごろに供養しました。この祠は、吉右衛門の子孫の自宅近くに今も残っています。

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