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おすすめ探訪スポット!
都田町・新都田
みやこだちょう・しんみやこだ

故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知るまち
はるか昔の縄文時代から人々が定住し、豊かな生活を営んできた都田町。
平安時代には伊勢神宮の「御厨(みくりや)(神領)」となり、
神様への供物を捧げてきました。
また隣接する新都田は、近年、「テクノポリス」として発展し、
官民の研究所や工場のほか、美しい街並みの住宅街が広がります。
今回は、そんな「古くて新しいまち」の魅力をお伝えしましょう。

都田丸山緑地の展望台から眺めた都田町、新都田の風景

都田丸山緑地の展望台から眺めた都田町、新都田の風景

伊勢神宮との古くからの縁

小高い山の上から辺りを見渡すと、近代的な建物群と緑豊かな里山の風景が同時に目に入ってきます。ここは都田テクノポリスの一角にある都田丸山緑地。小さな山の周辺は公園として整備され、園内にある高さ10メートルほどの展望台に上がれば、広大な浜松平野を一望できます。都田エリアの歴史と新しい魅力を探る今回のリポートは、この丸山緑地を出発点として始めることにしましょう。
丸山を下りて最初に足を向けたのは、都田町神明風呂に鎮座する須倍神社。仁和3年(887年)建宮の同神社は、天照大皇神ほかを祀る内宮と、豊受姫大神ほかをご祭神とする外宮から成ります。内宮と外宮に分かれるのは伊勢神宮と同じ。このことから推察できるように、同神社は伊勢神宮と古くから結び付きが強く、かつて周辺には御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園が広がっていました。

須倍神社の鳥居前

須倍神社の鳥居前

それに加えて、当地が伊勢神宮と深い関わりがあったことを伺わせる“証拠”がもう一つ。それは、神様や神社に関係する苗字の家が多いことです。例えば、須倍神社を氏神とする「須部さん」や、「鳥居さん」「神門さん」「森神さん」「宮司(みやじ)さん」など、他の地域ではあまり見られない苗字のお宅が地域内には点在しています。まさに、神様とのご縁が深い土地柄と言えるでしょう。

 

「ここが都だ」が知名の由来?

こうしたまちの歴史をさらにさかのぼると、今から1万年以上前の縄文時代にたどり着きます。新都田の前原3号遺跡からは、狩猟用の槍に使ったと見られるナイフ型石器(約1万年前)が出土。この遺跡からは、東西90メートル、南北110メートルに及ぶ環状集落の跡(約4000年前)も見つかっています。集落には多くの竪穴式住居が建てられ、縄文式土器を利用して食糧の備蓄や煮炊きが行われていたと考えられています。このような遺跡は町内の他のエリアにも多数分布しており、都田は「縄文の繁栄エリア」だったと想像できます。
やがて時が進み、今から約1600年前の弥生時代には、都田川周辺のエリアで稲作が行われるようになりました。この時代の代表的遺跡である椿野遺跡では、東西200メートル、南北300メートルの村の跡が発掘されています。ここでは弥生式土器の皿、壺、高坏のほか、銅製の矢じりや腕輪などが出土。多数の人々がこの集落に定住し、村長(むらおさ)の指導のもと、毎年、計画的にコメ作りをしていたと推測されています。このほか、新都田の前原8号遺跡からは弥生後期の銅鐸が発見され、大きな注目を集めました。
その後、平安時代に入ると当地が御厨として発展したのは前述の通りですが、これに関連してもう一つの興味深い「伝説」があります。それは、8世紀末、当時の桓武天皇が奈良の平城京から都を遷そうとした時のこと。都田が新しい都の候補地となり、「ここが都だ」と言われたことが「都田」の地名の由来となった、という言い伝えです。また、都田は古くから「九重の里」と呼ばれますが、九重という言葉には「王城、皇居」という意味があり、これも「都田=首都候補地」説の傍証とされています。いずれも確たる証拠はないものの、地元の人たちの故郷愛を示す伝承であることは間違いありません。

お洒落なカフェが併設された都田駅改札口

お洒落なカフェが併設された都田駅改札口

人々を悩ませた都田川の氾濫

周囲を山々に囲まれた盆地に広がる都田のまち。その真ん中を流れる都田川は、昔から人々の暮らしを潤しています。農業用水としてはもちろんのこと、洗濯などの生活用水や、冷たい水を利用しての紙すき、清流での鮎釣りなど、日常生活に欠かせない貴重な水資源を川は供給してきました。しかし、ひとたび氾濫が起きると、都田川は普段の穏やかな姿から恐ろしい暴れ川へと変貌。流域に大きな災害をもたらしました。
かつて都田川は毎年のように洪水を起こし、その濁流は時に堤防を乗り越え、田畑や家屋を吞み込んで、道路や橋などに甚大な被害を与えました。そして、時には尊い人命まで奪うこともあったのです(後述のコラム参照)。近年の大洪水の記録としては、昭和16年(1941年)7月11・12日の集中豪雨、昭和49年(1974年)7月7日の「七夕豪雨」などが今も語り継がれています。
そうした都田川の氾濫からまちを救うため、昭和61年(1986年)に完成したのが都田川防災ダム(いなさ湖)です。このダムは中央コア型ロックフィルダムと呼ばれ、堰堤の高さは55メートル、長さは170メートル、ダム容量は546万立方メートルに達します。このダムで水量を調節することにより、都田川流域の住民は、長年、悩まされてきた洪水の脅威からようやく解放されたのです。

穏やかに流れる都田川

穏やかに流れる都田川

近代的都市機能と自然が調和

さて、このような歴史を重ねてきた都田地区に、やがて新しい「未来の風」が吹き始めます。昭和62年(1987年)から土地造成が始まり、平成5年(1993年)に土地区画整理事業が完工した浜松地域テクノポリス都田地区(都田テクノポリス)は、産・学・住融合の理想を掲げ、三方原大地北端の地に誕生しました。
テクノポリスができる前の新都田エリアは、起伏に富んだ山林地帯。台地の端にいくつもの谷間が入り組み、一部は耕地となっていました。こうした山林や農地、谷間を造成し、広大な企業用地、住宅地、緑豊かな公園、広々とした道路などを整備したのが都田テクノポリスです。総事業費は約532億円、総面積は約243ヘクタール。企業エリアには、浜松工業支援センター、静岡大学イノベーション共同研究センターや、地元及び県外企業の研究所・工場が立地。また住宅エリアの人口は約4500人で、大型のショッピングモールもあり、近代的な都市機能と自然が調和した快適な住環境を形成しています。

都田テクノポリスの開発前予定地全景

都田テクノポリスの開発前予定地全景

こうした新しいまちの発展に呼応するように、古くからのまちである都田町でも、若い人たちを中心に新たな地域活性化の取り組みが始まっています。町内を走る天浜線の都田駅にはお洒落なカフェが設けられ、今流行りの「映(ば)えスポット」として観光客に人気。また、新感覚のレストラン、豆腐料理店、ベーカリーのほか、こだわりの果物、野菜を生産する農家など、魅力あるスポットが目白押しです。さらに、「九重の里」にちなんで地元で結成された九重太鼓愛好会では、各地のイベント等で迫力あるパフォーマンスを繰り広げています。
このように、歴史と先進性を併せ持つ都田町・新都田エリアは、浜松の北の副都心として、これからも大いに発展が期待できそうです。
※参考文献:「わが町文化誌 都田風土記」

九重太鼓のパフォーマンス

九重太鼓のパフォーマンス

 

教え子のために殉職した伝説のスーパーティーチャー
河西 哲英 訓導(都田小)

自らの命を犠牲に児童を守った河西哲英訓導

自らの命を犠牲に児童を守った河西哲英訓導

天浜線都田駅のすぐ近くに位置する浜松市立都田小学校。地域の子どもたちの大半が通うこの小学校では、自らの命を犠牲にして教え子を救った「伝説のスーパー教師」の偉業が長く語り継がれています。その教師の名は河西哲英。都田小の訓導(旧制小学校の正式教員、現在の教諭)を務めていた河西は、昭和2年(1927年)5月3日の都田川氾濫の際、一人の女子児童を救助しようとして濁流に呑まれ、帰らぬ人となりました。

その日の早朝、夜来の雨のため都田川は刻々と増水。危険を察した校長は授業を午前九時半頃に中止し、職員を手分けして児童に付き添わせ、各方面に帰宅させることにしました。この時、河西訓導は東部方面の責任者として児童たちの先頭に立ち、県道を東に向かいます。道路の北側には川からあふれた濁流が恐ろしい勢いで流れ込んでいましたが、児童たちは手をつないで列を組み、足元に注意しながら帰宅を急いでいました。
すると、一人の女子児童が足元の激しい流れに目がくらみ、県道北の濁流に転落。これを見た河西訓導はすぐさま水に飛び込み、流された女子児童を抱きかかえて、泳いで道路側に戻ろうとしたのです。しかし水勢に押し流されて戻れず、やむなく流れに従って対岸に渡ろうとしました。そして、もう少しで対岸にたどり着くと思われた瞬間。河西訓導の姿は急に見えなくなりました。
河西訓導の後を追って別の先生も泳いでおり、その先生が女子児童を無事救助したものの、河西訓導は見つかりません。急報を受けた校長は消防団に出動を要請し、村人たちも総出で必死に捜索しましたが、当日の昼頃、河西訓導は変わり果てた姿となって発見されました。
まだ三十六歳の若さでした。

河西訓導の偉業を称える石碑

河西訓導の偉業を称える石碑

自らの危険を顧みず、身を捨てて児童の命を守った河西訓導。その勇敢な行動は地域の人々の心を打ち、約100年後の現在も地域の恩人として称賛されています。都田小には「河西訓導殉職之碑」が建立され、毎年5月3日の命日に児童たちによる碑への献花式が行われます。この日は、都田小の全校児童、PTA役員、地域の代表が式に参列。河西訓導の遺徳を偲び、命を大切にすることを誓う日としています。また毎年4月中旬には、6年生の児童が「河西先生物語」と題する紙芝居を作成。これを2~5年生の下級生に対して読み聞かせることで、命の大切さを代々の児童に伝えています。

5月3日に行われる碑への献花式

5月3日に行われる碑への献花式

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