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おすすめ探訪スポット!
和田・蒲エリア
わだ・かば

歴史ファン必見のスポットが点在
旧東海道の松並木や金原明善の生家、由緒正しい蒲神明宮など、
歴史と文化の宝庫である和田・蒲エリア。
古くから人々が暮らすこの地域には、
特色あるスポットが数多く点在しています。
中には徳川家康公ゆかりの寺や、有名な大盗賊を供養する寺もあり、
歴史ファンには一見の価値ありです。
今回はそんなエリアを訪ね、まちの魅力を探ってみましょう

和田地区に残る東海道の松並木

和田地区に残る東海道の松並木

金原明善翁(きんぱらめいぜん)の業績を伝える

ここは和田地区の東寄りにある浜松市東区薬師町。道沿いに数本の松の木がそびえ立ち、行き交う人や車を見下ろしています。これは、東海道の松並木。かつては中野町、和田、蒲の3地区を貫く松並木があったと言われますが、道路の拡幅などにより、今は和田地区に残るのみとなっています。
東海道は江戸初期、徳川家康公の時代に本格的に整備され、日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る約490キロの街道となりました。途中、53カ所の宿駅が設けられ、これがいわゆる「東海道五十三次」です。その後、東海道沿いの各地に松並木が整備されるようになり、その名残が薬師町に残っているというわけです。
この松並木から東海道を東へ向かって行くと、長屋門に囲まれた立派な和風建築のお屋敷が見えてきます。これは、遠州を代表する偉人である金原明善翁の生家。築200年の建物ですが、平成23年(2011年)に大幅改修し、記念館として一般公開しています。
明善翁は天保3年(1832年)、遠江国安間村(現在の浜松市東区安間町)の生まれ。「暴れ天竜」と恐れられた天竜川の治水に私財を投げ打ち、「治山治水」の考え方から北遠の森林事業にも力を注ぎました。これにより、浜松は度重なる天竜川の氾濫被害をまぬかれるとともに、「天竜美林」と呼ばれる森林資源の宝庫となったのです。明治維新から大正時代にかけて、社会貢献一筋に生涯をささげた明善翁の業績は、記念館の展示室でつぶさにみることができます。

金原明善生家の展示室

金原明善生家の展示室

また、明善翁は材木業、運輸業、金融業などを幅広く手掛けた偉大なビジネスマンでもあります。明善翁は、山で伐採した木を天竜川の水運を利用して半場荷上場(浜松市東区材木町)まで運び、製材して各地に輸送しました。明治25年(1892年)、東海道線天竜川駅から半場荷上場まで引き込み線を敷設。これにより、従来は帆船などの海路で運ばれていた材木の大半が貨車輸送に切り替わり、物流革命が起きました。当時の荷上場があった付近には「天龍運輸発祥之碑」が残されています。

天竜木材の物流拠点となった半場荷上場

天竜木材の物流拠点となった半場荷上場

家康公を二度助けた妙恩寺

続いて、明善翁の生家から南西方面へと向かった先の東区天龍川町にあるのは、日蓮宗の名刹・長光山妙恩寺(ちょうこうさんみょうおんじ)です。このお寺は、金原明善翁やテレビジョンの父・髙柳健次郎の墓所として知られていますが、もう一つ注目されるのは徳川家康公との深いつながりです。家康公は、妙恩寺を二度にわたって訪れ、いずれの時もこのお寺に大いに助けられました。
一度目の来訪は元亀元年(1570年)。この年、三河から遠州に進出した家康公は、浜名湖北岸から井伊谷を通り、現在の東区安間町を経由して妙恩寺に本陣を置きました。当時、浜松の中心部には今川氏の勢力が残り、うかつに侵攻することができなかったからです。家康公は、井伊家と松下家(現在の浜松市南区頭陀寺町に本拠を置いた豪族)を味方に付け、北と南への備えを万全にした上で西の曳馬城(浜松市中区元城町)を攻略。妙恩寺の本陣から出撃して同城を陥落させ、遠州を支配下に置くことができました。
そして二度目の来訪は元亀3年(1572年)。当時、遠州には戦国最強と呼ばれる武田信玄の大軍勢が迫っており、家康公はこれを迎え撃つため天竜川を渡り、磐田原台地の見付に陣を敷きました。この時に起こったのが、有名な「三方ヶ原の戦い」の前哨戦といえる「一言坂の戦い」です。家康公は少ない兵で信玄に対抗しますが、武田の猛攻撃を受けて西へ敗走します。逃げる家康公を救ったのは、徳川最強の武将、本多平八郎忠勝。忠勝は殿(しんがり)(退却する軍の最後尾で敵の攻撃を防ぐ最も危険な役割)として、一言坂で武田軍の猛追を防いで家康公を無事浜松へと逃がします。そして忠勝自身も生還し、敵の武田から「家康に過ぎたるものが二つある。唐(から)の頭(かしら)に本多平八」と称賛されました。

家康公をかくまった妙恩寺の本堂

家康公をかくまった妙恩寺の本堂

こうして命からがら浜松に戻った家康公は、敵の追撃を恐れてすぐに浜松城には帰らず、妙恩寺に逃げ込みました。当時の住職は、家康公を本堂の天井裏に隠します。そこへ武田軍がやって来て「家康はいるか?」と尋ねますが、住職は本堂で朗々とお経を読んだまま相手にしません。武田軍は仕方なく引き揚げました。この後、住職は家康公に一杯のおかゆを振る舞い、家康公はそれをありがたく平らげます。家康公は空になった丸いお椀の上に2本の箸を渡しながら、住職に言いました。「御坊のお陰で命拾いできた。礼を言う。今後は丸に2本の横棒を寺の紋章とするがよい」。これが妙恩寺の寺紋の由来とされています。
そんな歴史を持つ和田は、遠州信用金庫の前身の一つである浜名信用金庫がかつて本店を置いた場所(中野町から移転)。伝統あるまちの人々に、えんしんは育てられたと言えるでしょう。

 

妙恩寺の紋

妙恩寺の紋

地域の誇り、蒲神明宮

さて、ここからはさらに西に向かい、蒲地区まで足を運んでみましょう。まず訪れたのは、浜松市東区大蒲町にある六軒京本舗。元祖・紫蘇巻の名店として古くから知られています。それにしても、なぜこのような店名が生まれたのでしょうか。その由来は次のように伝えられています。
江戸時代、この辺りには東海道の松並木が続く「蒲畷(かんまなわて)十六丁」という場所がありました。この松並木沿いに6軒の家があったことから、いつしか「六軒」と呼ばれるようになったといいます。幕末の頃、この六軒に金原明善の一族である鈴木京次郎という人物が移り住みました。京次郎の妻、まつは東海道を往来する旅人向けに小さな茶屋を開業。大変な働き者だったまつは、「何か新しい商品を出してお客さんに喜んでもらおう」と、あるアイデア商品を考案します。それは、この地方でよく採れる紫蘇の葉を利用したユニークな食品でした。
まつが考え付いたその食品の作り方は①米麴の多い味噌に唐辛子、麻の実などを入れて紫蘇の葉で巻く②これを竹串に刺してごま油を塗り、炭火であぶる―というもの。これこそが浜松名物・紫蘇巻の始まりです。この紫蘇巻を弁当のおかずとして売り出したところ、旅人たちの間で大変な人気となりました。紫蘇巻の評判は旅人同士の口コミで全国に広がり、「六軒の京次郎さんのところの紫蘇巻」ということで、「六軒京」のブランドネームが誕生したとされています。
ちなみに店先や店内に掲げられる「六軒京」の文字は、著名な文人である武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)の揮毫(きごう)によるもの。そこからも、お店の歴史と豊かな文化的背景が伺えます。
紫蘇巻の名店に別れを告げ、さらに西へ進んで行くと、こんもりとした鎮守の森が見えてきました。ここは、地域の人々から「ごしんさま」の愛称で親しまれる蒲神明宮。太古の昔、この地では「蒲大神」という神様をお祀りしていました。古代日本の正式な史書の一つである「三代実録」にも「蒲大神」の名が記載され、今も存続しているという意味で「国史現存」の神社とされています。
また10世紀初め頃には、大化の改新の立役者として有名な藤原鎌足の子孫、鎮並(しずなみ)が伊勢神宮の神託を受けて当地を開拓。土地を「蒲御厨(かばのみくりや)」(御厨とは神社の領地のこと)として伊勢神宮に寄進しました。静並は伊勢神宮の内宮、外宮から分霊を勧請し、神明宮を創始したと伝えられています。

元祖・紫蘇巻で有名な「六軒京」の店内

元祖・紫蘇巻で有名な「六軒京」の店内

このように伊勢神宮と強いつながりを持つ蒲神明宮は、伊勢神宮と同様に式年遷宮(定期的にお宮を建て替え、神様にお移りいただくこと)を行うことでも知られています。近年に行った遷宮では、2000年に内宮、2021年に外宮を建て替えました。このような格式ある神社が鎮座していることは、地域の住民にとって大きな誇りといえるでしょう。

女子教育の伝統を守る西遠

最後に、蒲神明宮のすぐ近くにある女子教育の名門、西遠女子学園をご紹介しましょう。同校は明治39年(1906年)、現在の浜松市中区平田町で「私立女子高等技芸学校」としてスタートしました。創立者は岡本巌氏、初代校長は巌氏の妻、欽氏。大正9年(1920年)には「西遠高等女学校」となり、大正12年(1923年)に現在の校地に移転しました。

西遠女子学園の創立者 岡本巌氏

西遠女子学園の創立者
岡本巌氏

西遠の建学の精神は「婦人の中に未来の人は眠れり」。これは、巌氏の次のような信念から生まれたものです。「女子は将来、妻となり母親として子どもたちを産み育てるという重大な使命と責任がある。これからは女子の教育こそが大切だ」。男子の教育のみに力が注がれていた当時の時代状況において、巌氏の教育思想は極めて先進的であり、女性活躍社会を目指している現代に通じるものがあると言えるでしょう。
昭和24年(1949年)、戦後に制定された私立学校法に基づき、学園は中高一貫の「静岡県西遠女子学園」となります。当時の岡本富郎校長は、特色ある女子教育を行うとともに、優美な扇形校舎などいかにも西遠らしい学び舎づくりを進めました。これにより、西遠は浜松を代表する女子学園として大いに発展。襟に2本の黄色いラインが入った西遠のセーラー服は、地域の女子小学生たちの憧れの的となりました。
近年、少子化が進む中で浜松の女子校は共学化が進み、女子教育を堅持しているのは今や西遠のみとなっています。そうした時代の流れの中にあって、今後、西遠はどのような方向を目指していくのか。数多くの卒業生や、西遠を愛する地域の人々は、その行く末を真剣に見守っています。

現在の西遠女子学園校門

現在の西遠女子学園校門

 

「問われて名乗るもおこがましいが…」
宝珠寺に残る「白波五人男」首領の供養塔

宝珠寺の地蔵堂内にある日本左衛門の供養塔(左端)

宝珠寺の地蔵堂内にある日本左衛門の供養塔(左端)

歌舞伎の「白波五人男」という演目をご存知でしょうか?舞台の上に5人の盗賊(白波)が番傘を持って勢ぞろいし、一人ひとりが順番に名乗りを上げていく場面が有名です。実は、この盗賊集団の首領を供養する小さな塔が東区上新屋町の池上山宝珠寺(ちじょうさんほうしゅうじ)というお寺にあるのです。
「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在。(中略)六十余州に隠れのねぇ、賊徒の首領、日本駄右衛門(にっぽんだえもん)」(途中略)。歌舞伎でこのように名乗る日本駄右衛門は、実在の盗賊である日本左衛門(にっぽんざえもん)という人物をモデルにしています。日本左衛門は享保4年(1719年)の生まれ。歌舞伎では浜松生まれとなっていますが、実際は尾張の出身です。成長して東海道一円にその名を轟かせる大盗賊となり、幕府の人相書きが全国に手配されました。200名ほどの手下を従える日本左衛門は、いつの頃からか上新屋に住むようになり、当地に恋人もいたそうです。

厄除け開運のご利益がある「上新屋岩戸観音」

厄除け開運のご利益がある「上新屋岩戸観音」

やがて、幕府から派遣された火付け盗賊改めが盗賊団の幹部を捕縛。日本左衛門本人は逃亡しますが、潜伏先で観念して自首しました。そして江戸で斬首され、首だけが遠州見付でさらされたといいます。このことを上新屋の庄屋が憐れみ、日本左衛門がかつて住んだ場所の近くに供養塔を建ててやりました。近代に入り、区画整理などに伴って供養塔は宝珠寺に移され、現在は延命地蔵のお堂の片隅にひっそりと安置されています。
宝珠寺は、臨済宗方広寺派の禅寺で、本尊は子授け・安産・子育て諸願成就の「子安地蔵」。また、厄除け開運の「上新屋岩戸観音」も祀られ、目や足のご利益があるとして信仰を集めています。この観音様のお姿は、岩の上に座すという非常に珍しいもの。「天の岩戸」から出て来られた天照大御神を彷彿とさせます。また、観音様を祀る「岩戸観音堂」は今から200年前に建立され、当時の須弥壇(しゅみだん)や天井画が今も残っています。
さらに、本堂前の「池上山」の山号額と、弁天堂前の「弁財天」の碑は、幕末の幕臣、明治の官僚・政治家で剣・禅・書の達人として知られる山岡鉄舟によるものです。こうした貴重な文化財を数多く収蔵する宝珠寺は、地域を代表する歴史遺産の一つといえるでしょう。

山岡鉄舟の書である「池上山」の山号額

山岡鉄舟の書である「池上山」の山号額

 

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